石井 小夜

 卒業論文要旨

十五年戦争期における彫刻の役割
―北村西望を中心に―


 私が戦争美術を取り上げようと思ったのは、いろいろな意味において「戦後」の終わらない現在、美術を通し戦争について考えたいと思ったからである。高度成長を遂げた戦後の日本に生まれた私達の世代は、十五年戦争について学ぶ機会は極めて少なく、戦争は過去の、また遠くの出来事として、メディアによって伝えられるだけで、その凄まじさ、悲惨さを実感することはない。しかし、「戦争記録画」の存在を知ったとき、それを隠してきた戦後日本のシステム、また「戦争記録画」が制作された戦争期の日本の状況、美術に興味を持ち、研究に値する問題だと思った。「贅沢は敵だ」と唱えられた日本の厳しい経済状況の中で、美術は戦意高揚の武器の一つとして、また文化面における日本の優位を示すため大きな役割を担っていたことを知り、改めて視覚によるイメージの操作の重要性に気づかされた。

 これまで戦争美術といえば、主に「戦争記録画」が研究の対象となり、公開も含めその全体像はまだ明らかにされているとはいえない。「戦争記録画」とは、戦時中陸海軍省より美術家が戦地へ派遣され制作された絵画で、「聖戦美術展」をはじめとした軍部主催の美術展に出品され国民の戦意高揚を担った絵画群のことである。しかし戦時中に戦争美術として制作されたのは、絵画だけではなかった。彫刻家も従軍彫刻家として戦地に赴き記録彫刻を制作していたし、文展では、彫刻、工芸においても戦争を主題とした作品が発表され、戦意高揚の一端を担っていたのである。

 本論は、十五年戦争期の美術の中でもこれまでほとんど研究のされていなかった彫刻を取り上げ、戦争美術をより大きな視点で捉えることを試みた。戦争彫刻は、銅など材料の使用制限もあり、作品がほとんど現存しておらず、残っていても散在しており、現在、作品を実際に見ることが難しい現状がある。今回、戦争彫刻の役割、明治期に導入された洋風彫刻・銅像の成立、戦時中の美術状況を眺めつつ、北村西望の戦争彫刻を中心に考察し、戦争彫刻の一端を明らかにしようと試みた。

 北村西望は、長崎市平和公園の《平和祈念像》によって広く知られ、戦前・戦中・戦後を通し、彫刻界の重鎮として日本の近代彫刻を担った一人である。西望は、戦争彫刻とともに軍人の銅像も多く制作しており、今回のテーマでもある「戦争彫刻」と「銅像」をつなげる貴重な作家の一人として特に取り上げた。

 第一章一節では、戦争彫刻を取り上げるにあたって、戦争美術におけるそれぞれのジャンル―日本画・洋画・彫刻―の特徴、役割を考察し、戦争彫刻を考察する意味を再確認した。場面表現に適した絵画は、戦争を歴史画として永久に記念するために描かれた場合が多い。それに対し彫刻では、作戦の記録というよりも、兵士や国民(占拠地の人を含む)をモデルとし、皇軍、皇国民精神を表現した教育的要素の強い作品が多いと考えられる。聖戦美術展の図録は、作品の見方を指定する解説が付けられており、純粋な作品鑑賞ではなく、美術の視覚的効果とともに聖戦、皇国民としてのイメージを植え付けるものであった。また二節では、洋風彫刻が日本にもたらされた過程を国家の関わりから考察した。「美術」という概念は、西洋文化の一つとして日本にもたらされた。「美術」の概念、用語は、万国博覧会の出品や官営の工部美術学校の開校など国家が主体となって強力に推し進められ、急速に認知されていく。洋風彫刻もその一つとして導入され、日本の伝統的彫刻でる、木彫にも影響を与え、発展した。また銅像は、西洋近代社会に倣った都市建造とともに建立が始まり、彫刻が社会的認識を得る契機となった。特に日本最初の銅像と呼ばれている兼六園の《明治紀念之標》と、日本最初の西洋風銅像である靖国神社鳥居前の大熊氏廣作《大村益次郎像》の比較を行い、銅像の成立を考察した。銅像は、国家に寄与した人物を崇敬する教育的意味をもって建設が促され、明治二十年代から大正期にかけて盛んに設置された。しかし戦時中の金属供出により多くを失い、また戦後には軍国主義の象徴とみなされ残りの作品も撤廃された。銅像は、帝国主義の崩壊とともに、教育的役割を失ったといえる。

 第二章一節では、十五年戦争期の美術状況を全体的に振り返り、どのように美術がファシズム体制に取り込まれていったかを考察した。特に日中戦争期の重大事件であった松田改組、明治神宮外苑の絵画館の歴史画、紀元二千六百年奉祝展を中心に、美術統制、また帝国主義下におけるイメージ操作の例を取り上げた。第二節では、十五年戦争期の北村西望の制作、活動を自伝、当時の雑誌記事等によりつつ明らかにすることを試みた。

 第三章では、まず一節において、文展・帝展作品と自伝を中心に西望の一般的な作品傾向とその評価を考察した。西望は、力強く動的なモデリングの男性像を得意とし、アカデミックな自然主義的写実表現とは異なり、自らの感情や浪漫的気分を盛り込んだ作品を多く発表していた。また当時のライバルで同じく東京美術学校の教授であった朝倉文夫、建畠大夢と共に依頼された、国会議事堂の憲法発記念祝賀典(昭和十三年)の銅像を取り上げ、三者の比較を行った。また、二節では、戦争期の展覧会作品の批評を集め、西望の作品が どのように受け入れられていたかを調べた。帝展、新文展と戦争美術展などその他の展覧会に分けて考察したが、西望は、帝展、新文展では、それまで通り、男性像を中心に発表している。一方、戦争美術展などでは馬や獅子といった動物をモデルとした作品を多く制作していることが、特徴として挙げられる。そして三節では、聖戦美術展と文展主催の戦争美術展(戦時特別文展)の主題の比較を行った。聖戦美術展では一般的に従軍彫刻家による兵士を中心とした戦地の状況、皇軍精神を伝える作品が多いのに対し、文展の戦争彫刻は、主題の幅が広く、神話上の人物や観音像も多いのが特徴といえるが、西望のように動物をモデルとした作品は少なかった。

 十五年戦争期における国家の美術によるイメージ操作を明らかにすることが本論のテーマであった。しかし、実際には国家によって全面的に行われたのではなく、そこには資本主義の発達という経済問題や画壇、画家個人の問題など、様々な問題が入り組んでいることが分かってきた。銅像においても、国家による個人崇拝の気風が批判され、崇敬、教育的意味での銅像の役割は少なくなってきている。しかし、現在でも銅像や環境彫刻による町興しは盛んであり、銅像が街から消えることはなさそうである。そう見ると、大東亜共栄圏の建設を唱い、占拠地から石を集めた記念碑《八紘之墓柱》、《大村益次郎像》が、国策、崇敬の象徴のでありつつも、呼び物、観光資源として機能していた当時の状況と大して変わらないことが見えてくる。戦争美術や銅像を、近代日本の帝国主義における暗黒部分といったような、一元的に評価するだけでなく、もっと別の評価や見方が現在必要になってきているのではないだろうか。十五年戦争を美術史で取り上げることは、単に当時の美術を明らかにするという問題に止まらず、現代にも通じる問題と引き寄せ考える必要がある。そういった意味でも戦争美術を研究する意義は大きく、今後新たな成果が期待される分野だといえるだろう。

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