金谷 あつみ

 卒業論文要旨

マグダレーナ・アバカノヴィッチの芸術について


 今なおさかんに制作活動を行っているマグダレーナ・アバカノヴィッチは、織りによる造形作家として、またインスタレーションの作家として、彫刻家として知られている。アバカノヴィッチの作品に一貫してみられるのは、有機的世界への深い関心である。そこではあらゆる生物が互いに結びつき、緊密な連関を持ちつつある一定の秩序のもとに統一されている世界を作り出している。そこではあらゆるものは一定のかたちに留まるものではなく、時間の経過とともに常に変化し、変貌し、さまざまな現象となってあらわれている。この生々流転ともいうべきありさまは、彼女の用いるインスタレーションという手法によく似ている。

 また、彼女の作品の多くが内包するメッセージは、現代におけるさまざまな問題を我々に問いかけるものとなっており、美的であるというよりもむしろ社会性を持つものである。さらにその造形の骨太な力強さや存在感、作品の醸し出す静謐な雰囲気は古代の遺跡やアニミズムにも似た、原始的な素朴さと雄大さ、厳粛さを思わせるものとなっている。本論では、この様なアバカノヴィッチの作品をたどりつつ、彼女の作品にみられるさまざまな要素について考察した。

 第1章ではアバカノヴィッチの経歴について述べた。
 現代の多様化する作品においては、その作家の時代背景や地域性が作品に及ぼした影響を立証するのは不可能にちかいが、それでも周囲の環境や経験が作家としての姿勢や作品の方向性を決めるうえで何らかの関係がないとはいえないだろう。

 アバカノヴィッチの場合、1930年にポーランドに生まれ、伝説や精霊の生きている田舎で暮らしていたこと、第二次世界大戦のさなかに幼年時代を送ったことと、戦後のポーランドの共産主義体制のなかに過ごしてきたことが、作品を語るうえでしばしば指摘されている。

 しかし彼女の作品は、決して特定のものごとを指し示しているわけではない。これらの体験は結局のところ作品を生み出すにあたっての想像力や、物事に対する問題意識を彼女に持たせることになったのだろうというにとどめたい。

 第2章では、作品について紹介しながら、それらについて書かれたさまざまな記述から作品がどのように捉えられているか考察した。アバカノヴィッチは作品をシリーズとして展開しており、いくつかのシリーズの制作を同時に行っている。従って、明確な区分けはできないのだが、作品の変遷においてある程度の区切りはつけられるものである。ここでは1.空間の構築、2.人間の存在、3.自然への共感と、三つの時期に分け、主要な作品を取り上げて年代的にたどった。

 1.では、1960年代の <アバカン>シリーズの作品を主に取り上げている。アバカノヴィッチは、そもそもはタピスリー制作から出発している。しかし彼女の生み出した作品は従来の壁の装飾としての織物に留まるものではなく、次第にレリーフ化し、壁面から離れた立体と化し、巨大化していくこととなった。しかしそれはいまだ柔らかな布であるために、それ自体で自立することはできない。天井から吊り下げることによりそのフォルムを保っている。これらの作品の一つの特質はその素材の、ファイバー(繊維)の持つ物質性を強く押し出していることである。さらに作品は集合として展示され、互いに共鳴し合い空間に強い緊張感をもたらしている。タピスリーの装飾という実用を排していること、空間に立体として屹立しているが自らそのフォルムを保てないこと、これらによりタピスリ一にも彫刻の範疇にも納まらないものとなっている。

 この一連の作品は織りの分野に新たな可能性を開き、「ファイバー・アート」の先駆けとして、高く評価されている。

 2.では1970年代から80年代にかけて制作される人体像を取り上げた。<オルタレーション(改造)>などの一連のシリーズにおける人体は、生身の人間から原型をとり、黄麻布をかたどり膠や樹脂で固める方法で作られている。しわの寄ったざらざらとした布の物質感が強くあらわれている。これらの人体はいづれも頭部と腕や足の一部が存在しないトルソである。またこれらの人体は、身体の片側の表層のみが形作られている。貝殻のような作りになっており、内側にくぼんでいる。

 展示にあたってはそれぞれが集合として、同じ方向を向いて群集としてむらがり、あるいは整列している。この造形と並べ方は非常に暗示的である。頭部という人間の中でもっとも表情の豊かで、人間を個人としてあらしめるはずの部分が失われているこれらの人体は、個性を剥奪され、ただの物体と化した。さらに同一のフオルムの集合により、特定の人間を示すものではなく、社会における人間の当たり前の在り方として、人間一般の存在を示すものとなっている。名前を消され、中身のない、表層のみのただの物質と化した人間のありさまは、深刻で重々しく、現代社会において何らかの問題を抱えている人々を思い起こさせずにはおかない。

 3.では、1980年代後半から行われる作品を取り上げている。<手のような木>などのシリーズにおける作品では、人間と樹木の一体化が図られ、人間と自然との関わり方の一つの在り方を示している。人間の苦しみに村するアバカノヴィッチの共感は、人間が破壊しつつある自然に対する共感にまで及んでいるようである。

 第3章ではほかの作品との比較をとおして、第2章において述べたアバカノヴィッチの作品の特質をより明らかにしようと試みた。

 我々を取り巻く自然や人間というものは芸術において非常に重要で、伝統的なテーマであり、現代においても多くの作家が取り上げている。また、さまざまに試みられている手法―素材の扱い方や造形の方法、展示の手法という点においてもアバ力ノヴィッチと共通している部分が多々ある。

 しかし現代においては、作品にはどのような解釈も成り立つために、意味内容において多くの作品と比較考察するのは困難である。従ってここでは主に造形の面から、西洋の作品を取り上げている。

 以上のように、マグダレーナ・アバカノヴィッチの作品を取り上げてきたが、アバカノヴィッチについて冒頭で述べたように、織りによる造形作家、インスタレーションの作家、彫刻家など複数の肩書きがつくのは、彼女がジャンルにとらわれない幅広い制作を行っていることの証であろう。現代における作品は多種多様であり、アバカノヴィッチをどこかに位置づけることは試みなかった。しかし、このような考察が、より多角的な、研究の一助になれば幸いである。

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