酒井 陽子

 卒業論文要旨

森村泰昌論
―パスティッシュをめぐる考察―


 森村泰昌は、今日、日本を代表する芸術家の一人として国際的に活躍している。1985年に制作された 『肖像・ゴッホ』以来、セルフポートレイトの作家として注目を集めている一方で、執筆活動や、パフォーマンス、美術展のプロデュース、テレビ出演など、その表現手段は多岐に亘る。

 第1章では、森村氏の活動を順を追って、概観した。まず第1節において、森村が現在に至る作風を決定した『肖像・ゴッホ』以前の状況を、第2・3節では、世間に登場し始める、いわば転機の頃を見た。そして第4節では、これまでの作品についてシリーズ毎に分けて、そのほとんどのシリーズの特徴を考察した。初期には、主に西洋を中心とする名画を、自らの身体を使って再現する「美術史の娘」シリーズがある。例えばレンブラント、マネ、ゴヤ、デュシャンなどの有名な作品が用いられた。94年にはマイケル・ジャクソン、マドンナをテーマにした「サイコボーグ」シリーズ、そして95年ブリジッド・バルドー、マリリン・モンローなど往年の有名女優を演じた「女優」シリーズを展開、98年には個展「空装美術館」で、現代美術や『モナ・リザ』から引用した制作などを示している。いずれのシリーズにおいても、凝った衣装や舞台装置さながらの小道具、コンピューターグラフィック、ビデオなどを用い、森村自身などが登場人物になり再現するのである。しかしここでは、決してオリジナル作品の忠実な再現が目的とされているのではない。オリジナル作品は、森村のイメージを作り上げるためのべースとして機能するのである。オリジナル作品に対する、独自性の強い分析が再現を通して表現される。

 このような森村の制作活動について、多くの評論家が考察を行ってきた。膨大な資料がそのことを示している。また美術の専門家のみならず、一般の人々も彼の活動に引き付けられている。こういった状況の要因として、作品に見られるマスメディア的要素の存在は否定できないが、それだけが理由ではないだろう。一体何がこれほど、人々を引き寄せるのであろうか。一見悪趣味で強烈なインパクトを持ちながらも、非常に社会批判的な側面を垣間見ることがある。そのような社会批判が、共感を呼ぶのだろうか。

 森村の手法は、しばしばパロディー的などと言われてきた。確かにそのような要素は存在しているが、作品の本質とは異なると推測される。しかし、他の作品の借用としての側面を見逃すことは出来ない。ここで、パスティシュという概念を通して、森村の芸術に対する理解を深めることが出来ないかと考えた。第2章では、パスティシュについて考察した。

 パスティシュという語は、一般的に馴染みが薄いが、ポストモダニズムの立場から取り上げられることの多い概念である。そこで、まず第1節で、ポストモダニズム芸術におけるパスティシュについて検討した。フレドリック・ジェイムソンは、パスティシュを、「無表情なパロディー」とし、パロディーの「隠れた動機、風刺的衝動、笑い」を持たない「ものまね(mimicry)の中立的(neutral)な実践」であるとした。このような分析をもとに、現代的パスティシュ概念の位置付けの確認を行った。この概念は現代の社会状況と対応しており、現代的意味を持つものであることが理解できる。しかし、現代特有の概念ではなく、美術のみに適用されてきたものでもない。文学や音楽の分野でもパスティシュという語が存在しており、特に文学の中では重要な位置を占めている。そこで、それ以前のパスティシュはどの様なものであったか、美学的あるいは文学的立場から調べる必要があると考え、語源、パロディーとの比較による特性、文学におけるパスティシュ研究を行っているジェラール・ジュネットによる分析などを記した。

 第2章の最後では、具体的なパスティシュイメージを見ていくため、特に写真を取り上げた。我々の生活の中には多様なイメージが溢れている。写真を代表とする複製技術によって、本来関連のないイメージですら組み合わされることが可能となった。このように、現代では映像を借用することは日常茶飯事であり、このことをパスティシュとしてとらえることが出来るのではないだろうか。なぜなら、現代のイメージ借用は、必ずしも元のイメージを皮肉る意図を持たず、そのことはパスティシュの特性でもある。パスティシュにおいて、過去のイメージは、一つの資料として機能する。そして、我々はどの様なイメージに対しても、批評的あるいは、冷笑的な距離を置く。この様な状態が現代社会全体に広まっていることは、現代美術の中で象徴的に表現されている。それらを認めることは可能である。アンディー・ウオーホル、シンディー・シャーマン・ゲルハルト・リヒタ一などを例に挙げ、パスティシュとの関連を考察した。

 第3章では、森村泰昌とパスティシュについて、美術史とセルフポートレイトの二つの視点から、論じた。森村が、作品制作を通じて関わるものの一つは、美術史である。既に述べたような「美術史の娘」シリーズは、はっきりと西洋の美術史を意識したものであるが、それ以外にも日本の伝統的な芸術である、茶道、書道、日本画にも関わっている。た、「女優」シリーズのように、美術と離れたものを題材としていても、美術のカテゴリーに対する問題提起は失っていない。

 近現代には、「芸術作品は自己の固有な表現であり、個性的なもの」という考えが存在していると思われる。森村の作品もまた、過去の名画や他の手法に自己の分析を乗り移らせることによる自己表出である。しかし、一見して模倣作品であることから、問題がそれ程単純でない。作品には、他のコンテクストとの関わり―例えば美術史―が常に存在する。

 他のコンテクストとの関わりは、ポストモダニズムの中でしばしば問題視されてきた。森村の作品でも、例えば美術史というコンテクストと関わることによって、新しい視点を我々に示しているのである。我々は作品そのものを見ていると言うよりは、そこに映る発想、元の作品とのズレを鑑賞していると言うことができるであろう。

 自己に対しても、新しいアプローチが示されている。『肖像・ゴッホ』からセルフポートレイトの写真家として、スタートを切ったと言うことが出来ると思われるが、以来、自己を媒体として表現を続けている。しかし、普通のセルフポートレイトのように内面への求心性は見られず、むしろ自己を喪失する方向へ向かっているように見える。自己という問題に対して、以前とは異なる方法で取り組んでいるのではないだろうか。「将来は、与えられた私たちの体や心から自由になって、自分で選びとることができれば、どんなにか楽しいことだろう」という森村の言葉は宗教的意味を持つであろう。そこには、我々が持つ固定観念に対するメッセージを読みとることが出来るし、存在そのものに関わる問題でもある。

 1998年秋に大阪で行われた「森村泰昌プロデュース『テクノテラピー―こころとからだの美術浴―』」は、十数人で構成された展覧会である。身体の問題と芸術との関わりが見られたことは、象徴的であったように思われた。それは自分と密接な側面からの、芸術に対するアプローチであったとも言える。

 没個性的であるはずのパスティシュ的な表現が、我々にとってリアリティーのある方向へ向かっていること、この逆説的な手法によって独創性は尊重されていることが感じられる。森村の表現手段はさらに留まることなく展開していくように思われた。「個」を見つめ続け、我々に問いかけ続けていくであろう。

     芸術学     


[金沢美術工芸大学HOME]