田辺 恵美

 卒業論文要旨

普賢十羅刹女像の変遷
─和装本の考察─


 普賢十羅刹女像は、平安時代の十二世紀前半から南北朝時代にあたる十四世紀後半まで、主に追善供養に際して描かれた仏画で、現在二十一幅が確認されている。その図様は、画面中央に六牙を生やした白象に合掌して坐す普賢菩薩を描き、その周囲に十羅刹女と称される十人の女性像を配するもので、多くの遺例は、虚空に浮かぶ湧雲上に薬王・勇施の二菩薩と昆沙門・持国の二天、そして鬼子母や持幡童子を加えて一図を成している。羅刹女は、仏教では一般に人を食う鬼女をいうが、十羅刹女の所依の経典である法華経には、法華経の守護善神として登場し、二菩薩二天に続いて鬼子母と共に釈迦のもとに現れ法華経の受持者を守護すると誓う。一方の普賢菩薩も同経典中の別の箇所に同じ功徳が説かれている。従って、この仏画は一般に、普賢菩薩を中尊に十羅刹女以下の諸尊を眷属として法華経の信仰者の守護を祈念して造顕されたものとみなされている。

 この仏画の大きな特徴の一つは、十羅刹女を美しく正装した女性像に描く点である。十羅刹女の形姿には、唐装と和装の二様が認められる。和装とは、つまり十二単を着た女房姿に描いたものをいう。十羅刹女を女房姿に描いた和装本は、鎌倉初期の作といわれる日野原本(個人所蔵)と鎌倉末期の作と考えられている東京芸術大学本や奈良国立博物館本などを合わせ、現在六例が確認できる。これらの和装本は、厳めしい仏画の多い中にあって異彩を放ち、絵巻物の如く艶麗な画趣を湛えている。しかし、女房姿の十羅刹女が、独鈷杵や宝剣といった法具の武器を手に執り、遺例によっては普賢菩薩を守護するように立ち回り袖を振る様は、画面に一種緊迫した印象を与え、いささか穏やかならぬ風情も感じさせる。

 このような和装本の成立に関して従来の研究は、女性たちが亡き故人の追善供養に十羅刹女を自身の姿になぞらえたものとし、「女性の信仰」という枠組みの中に位置づけてきた。「女性の信仰」とは、法華経に説かれる竜女成仏の典拠に基づき、中世の仏教が女性の成仏に「五障三従」という非常に困難な障害を設ける一方、信仰次第では成仏できると女性たちに法華経の受持や書写を奨励した事情を背景に持つ。平安時代の文献上の造顕例からも普賢十羅刹女像が高貴な女性たちの間で受容された仏画であったのは確かと思われる。

 しかし、十羅刹女が和装で描かれた意図を、単に「女性の信仰」という一言で説明するには収まりきれない点が認められる。それは、普賢十羅刹女像に美しい色紙を用いた法華経の写しである装飾経の見返し絵に通づる表現が窺えるからである。扇面法華経や平家納経には、十羅刹女を宮廷の女房に描くものが見られる。梶谷亮治氏は、装飾経の多くが亡くなった女性のために書写されたものであり、普賢十羅刹女像と同じ制作環境である可能性を指摘している。この仏画と装飾経との密接な関係は、文献上の作例により両者が対になる形で供養されていた点を挙げることができる。また、普賢菩薩と十羅刹女とが法華経の受侍者を守護するという典拠の敷衍から、経筒や装飾経の見返し絵に描かれ、法華経の経典に付属し経典を守護する役割を待つものであったと考えられる点からも指摘できる。装飾経の見返し絵は、経意を実際の公家の信仰生活に重ねて詠った和歌に沿って表したものである。従って和装本は、装飾経の影響を受けてその供養ごとに趣向を反映した意味の込め方がなされたものであると推察できるのである。以上のことから本論文は、和装本に様々な意味が込められていると想定し、その意味を和装本の変遷を通して考察することを試みた。

 普賢十羅刹女像がどのような信仰上の意味を持つのかについて、改めて文献上の造顕例にあたって確認した。その意味は、普賢菩薩を説く代表的な経典である法華経、観普賢経、華厳経に基づくものであると考え、これらの典拠が普賢十羅刹女像に反映していると考察した。法華経の典拠は先にも挙げた通りであるが、その他に、法華経の修行を行えばその者は弥勒菩薩の眷属である天女に囲縛されると普賢菩薩が釈迦に誓う一説に注目した。観普賢経において、普賢菩薩は生前の罪悪を滅する懺法の本尊として説かれており、その懺法の作法の一つに、これを行えば女性がその身ゆえに地獄に落ちることを免れ陀羅尼菩薩の眷属となる、すなわち普賢菩薩の眷属である十羅刹女になると解し得る典拠が示されていることを指摘した。華厳経では、普賢菩薩が故人を極楽浄土へ引導し、阿弥陀の受記にあずからせる存在として説かれていることから、この典拠が源信によって浄土教信仰の一端を支える説として流布していたことを指摘した。追善供養は、必ず懺法の後に故人の冥福を祈って、法華経を始め多くの経典と仏画とを共に供養する仏事である。おそらく普質十羅刹女像は法華経に添えられる形で、これらの意味が祈念されて造顕されたと考えられるのである。

 普賢十羅刹女像が装飾経のような趣向を凝らす和装本として描かれた経緯について、本論文では追善供養の場の性格に焦点を当てて考察した。追善の仏事は、美麗な造り物を飾り風流(ふりゅう)の趣向を凝らす場であった。それは、貴族にとって追善の場が故人の冥福を祈ることを前提としながらも、一族団結の場、さらには趣向を凝らし風流を競って各自の家の権勢を誇る政治的な場であったという事情による。この環境から法華経の風流を極め善美を尽くした装飾経が貴顕の間で競って制作されたことは明らかである。この環境の影響を受けて、装飾経と対になって供養された普賢十羅刹女像も趣向が凝らされ和装本が誕生したと考えた。

 和装本の意味は、主に日野原本から東京芸術大学本、そして奈良国立博物館本へと制作年代順にその変遷を追って六例を考察した。日野原本は、十羅刹女を和装で描くというよりも、宮廷の女性を十羅刹女の儀軌に説かれる形姿に近づけて描いている点から、観普賢経に説かれる懺法を行い、その結果十羅刹女化した女性の姿を描いたものと思われた。また童女の姿をした一羅刹女が儀軌に説かれていない扇を持つ点にも注目し、その扇面の月と波の意匠に竜女成仏の歌が詠みこまれていると推測した。従って、この仏画全体で女人成仏を願った意図が込められていると考察した。

 次に東京芸術大学本は、十羅刹女が賢頭衣を身に付け、舞うような姿態で描かれていることから、裲襠を着た五節の舞姫を意図したものではないかと推察した。この賢頭衣は、「年中行事絵巻」朝覲行幸の場面に描かれた剣璽の内侍が唐衣の上に着けている小忌衣と同じ衣であると思われる。文献資料に剣璽の内侍が五節会の装束を着る記述のあることにより、この衣が裲襠である可能性はかなり高い。十羅刹女を五節の舞姫姿に描いたとすればその意図は、天皇の追善供養の意味を込めたものと思われる。その理由は、五節が大嘗祭や新嘗祭という国家行事に関わる行事であることと、この時期の文献上の普賢十羅刹女像の造顕例の多くが天皇の追善供養のためであることなどから、天皇を普賢菩薩に見立て十羅刹女をそれを導く五節の舞姫としたと指摘できると考えたからである。奈良国立博物館本は、東京芸術大学本の図様とほぼ等しいことから、両本とも同じ制作環境にあると考えた。また奈良国立博物館心の制作年代は、十羅刹女の「春日権現験記絵」と「後三年合戦絵巻」の女房の描写に似ている点から南北朝時代のものと比定した。当本は、十羅刹女が鬼子母を加えた孔雀経に説かれる十大羅刺女と混浴している点が特徴といえる。十大羅刹女は、安産を願って修される孔雀経の守護善神である。このことは、奈良博和装本の十羅刹女のうちの二羅刹女が出産を司る御子守り姫として吉野水分社に祭られていた事実とも繋がる。さらに、東京芸術大学本に描かれたと思われる五節の舞姫がその起源に吉野の伝説を持つことから、法華経信仰の十羅刹女が吉野と時空を同じくする弥勤菩薩の浄土にいる天女たちに見立てられている可能性も指摘できる。また十羅刹女の吉野に重なるイメージから、当本も天皇を供養するための仏画であると考察した。

 このように、和装本の十羅刹女は追善供養の場の趣向の一つとして、様々な意味の衣を重ねて描かれたと考えられるのである。

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