谷村 崇

 卒業論文要旨

ゴーギャンにおける象徴の概念


 十九世紀後半から二十世紀初頭にかけての絵画の発展過程の中で、画家ポール・ゴーギャン(1848―1903)の占めた役割が極めて大きなものであったということは、今更繰り返す必要もないと思われるが、一方でその芸術上の意図については、はなはだ不明瞭な点が数多<残されており、そのことが、波の作品や彼自身に対する解釈において、多くの誤解を生む原因となっているのも事実である。誤解の多くは、ゴーギャンが自分の作品に与えた主題や解説をその種子としているが、このことは、彼の意図を考察するにあたって非常に興味深いものを含んでいると言える。というのも、ゴーギャン自身の手になる、これらの主題や解説は、一見作品のあらわしているものを明示するかのように見えながらも、実は画家その人によって、その解釈の正当性に疑問を投げかけられたものにほかならないからである。

 「ゴーギャンは沢山書いた。彼は一方で、多くの同時代人達と、絶えず、あるいは折にふれ文通を続けたが、他方では、定期刊行物にも論文を書いた。そして遂には、長い原稿を書きあげ、数冊の完全な書物をもつくった。全体では、千五百ページを下らない」。ゴーギャンの伝記作者であるアンリ・ペリュショは、その著、『ゴーギャンの生涯』の後記の中でこのように語っているが、ゴーギャンにとって<描く>ことと<書く>こととは、波の芸術上の実験において、同一の目的に奉仕する二つの方法であったように思われる。彼は、画家であることにあくまで忠実であったが、同時に画家である自分をあまりに強く意識し過ぎていたため、形象と意味の両項の関係が織り成す構造を、それも絵画と言葉の双万の側から、暴露せんという誘惑に逆らうことが出来なかった。絵画の優位性を確立するということが、どうしても必要だったのである。彼は、形象と意味との関係を、形と、形に向かう解釈の多様性として取り扱う。絵画の持つ意味は、絵画自身であるところの形と色によって喚起されるものとされるが、それゆえに、意味は一つの解釈でしかなく、絵から生み出される様々な解釈は、絵の中の形象が潜在的に持つ生成の力から、それぞれ与えられたその一部分を、意味という形でもつて受け取るのである。したがって、絵画は、それに付随するあらゆる意味を包含するものであり、それら全ての原因たりうる、と、ゴーギャンは絵画、いやむしろ芸術全般についてこのように考えるのだが、一方で波はこの関係をより明日なものとし、芸術創造の在るべき方向を見定める為に、これに一つの註を加えようとする。

 本稿で扱われるのは、ゴーギャンがその著述の中で執拗に繰り返した芸術創造の在り方について、それを説明するために彼が用いた対概念を比較検討することにより、その構造性を指摘しようとする試みである。ここで言う対概念とは、しばしば問題として挙げられる「写実」と「抽象」、或いは「寓意」と「象徴」といった、芸術における二つの方向性を指しているが、ゴーギャンにあってこれらは、いずれも同じ働きの中での、異なった側面を意味していた。

 第一節では、1889年3月の日付のある、アンドレ・フォンテナ宛のゴーギャンの手紙を取り上げながら、そこであらわされている絵の創造過程が、「寓意」と「象徴」との関連のもとに述べられる。この手紙の中で、ゴーギャンは、フォンテナが波の大作、《我々は何処から来たのか?我々は何か?我々は何処へ行くのか?》を、この絵の主題が著わしているものの「寓意」が解らないと批判することに対して、反論を企てている。波は最初に、「この絵は寓意などは含んではいない」とあらかじめ断わってから、その理由を説明しようとする。説明は、彼が語る絵の創造過程の各段階に即して行われる。ゴーギャンは、創造の最初の契機であり、絵画の本質であるところのものを、「表現されないもの」、すなわち獏とした言葉にならなし情緒の内に置くが、それは、画家によって、波の目の前に現われてくる夢の形象という形へと移しかえられる。そして彼は、「色彩のない、言葉にもならない、暗示的な線」によって構成された夢の形象を、「夢想しながら描く」。此処に至って作品は、初めて現実の世界において目に見えるものとなるが、絵の主題は、現実に投影された形象から、新たに喚起されるものだと、ゴーギャンは結論づけるのである(「夢想から醒め、夢が終わると、私は<自分自身に語りかけます>。我々は何処から来たのか?我々は何か?我々は何処へ行くのか?と」)。

 「表現されないもの」から、「自分自身への語りかけ」に至るまでの過程が、何ら意図的なものを含まぬ、自然なものだということに注意を促したい。主題や意味は、絵が完成した後に、初めて現われてくるものであり、始めから何らかの意味に準拠して、それを絵の中の形象に翻訳するのではないとゴーギャンは主張するのであるが、フォンテナは、意味から出発して、形象が表わしている寓意を理解出来ないとゴーギャンを非難する。両者の意見の相違は、芸術家と批評家という、彼等の立場の相違にもとづいている。ゴーギャンが説明する絵画の創造過程は、幾つかの段階を踏みながらも、一つの中心から放射状に周囲へ拡がって行く解釈の多様性の構造を示しているということが、第一節では指摘されるが、芸術家がその流れに即して創造を行うのに対して、批評は、最後に現われて来たものから、その過程を逆に辿らねばならぬという性質を持つゆえに、創造そのものを言葉の枠の中に閉じ込めてしまうものだとされるのである。したがって、ゴーギャンが厳しく戒める「寓意」とは、批評にあらわされるような、逆転した表現形式の移行の可能性を、創造の中に持ち込むということにほかならない。

 続く第二節では、第一節で論述した絵画の生成過程をもとにしながら、相反する方向性を持つこれらの対概念が、自然そのものの創造に即して理解されるべきものだということを述べた。この間題は、彼が芸術に与えた価値の問題として取り上げられている。「寓意」という概念は、ここでは自然の生成の固定化(死)の一つの側面である。ゴーギャンは、芸術を、「一つの抽象」であると言うが、波が言わんとする芸術とは、抽出された形象としての芸術作品であると同時に、反復される抽象作用の流れそのものである。自然の生成の流れの中から生まれてきた作品は、一つの抽象として現われてくるが、同時に、新たなる多種多様な抽象をも喚起する。「寓意」や「写実」としてあらわされる、諸々の逆向きの創造の可能性が責めを負わされるのは、それらが同じものの繰り返し、多様性ではなく、質的に同等のものの単なる集積しか創造し得ないからである。

 ゴーギャンは芸術の最初の、そして唯一の原因でもある「表現されない」情緒を、「自然の内的な力」という言葉で表現するが、この、ただ感じられるだけの情緒は、画家の「感覚(サンサシオン)」によって、先に挙げた夢の形象に変容せしめられる。「感覚」とは、芸術家を芸術家たらしめているものの同義語である。それは、精神が働き始める前に芸術家の中にあるものであり、無意識の領域に属しているが、それゆえに、「感覚」に従って行われる創造は何ら恣意的なものを含まない。

 創造の過程における恣意性の排除の徹底は、ゴーギャンが求めていた芸術の価値を明らかにする。波は二つの価値を提示する。一方は、特定の観念との同一性の中から価値を受け取るのに対して、他方の価値は、創造の力そのものにもとづいている。表現の対象となる「自然の内的な力」も、表現の手段となる「感覚」も、共に、芸術家という自然の一形態に属するものとされる。芸術は自然の諸力の一つの表出である。そして、その価値は、ゴーギャンが自然の中に見い出した諸形態の価値と、重ね合わせられているのである。

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