中西 美歩

 卒業論文要旨

月岡芳年画『月百姿』
―その歴史画としての位置―


 月岡芳年(1839〜1892)は明治十八年(1885)十月、「月百姿」と題する竪大判揃物を出版しはじめた。この揃物は、その後約六年の歳月を経て明治二十四年(1891)の夏頃に完結する。

 芳年は、幕末の殺伐とした世相を反映した残酷絵、血みどろ絵と呼ばれる一連の作品で有名な浮世絵師だ。彼は、天保十年(1839)に生まれ、十二歳の年、歌川国芳(1797〜1861)に入門したと伝えられる。明治五年(1873)に神経を病むが翌年快復し、その後精力的に作品を刊行し続ける。怪奇画、美人画などのジャンルで人気を呼ぶが、とりわけ歴史画は芳年の独壇場だった。晩年、再度神経を病んで発狂し、明治二十五年(1892)六月九日、五十四歳で没した。彼の弟子は多い。水野年方(1866〜1908)右田年英(1863〜1925)等がおり、また孫弟子に至るまでその系列は連なり、今日まで続いている。

 芳年に関しては、彼を死に到らしめた精神の病や幕末に刊行した一連の残酷絵が強調され、幻覚に狂った血まみれ絵師というイメージが定着している。そのため、これまで学術的研究はほとんどなかった。しかし一方で、一部の好事家や文筆家、芳年の弟子らの言説は大変多い。また、明治十八年(1885)の「東京流行細見記」浮世絵師人気番付で芳年は堂々一位となり、活躍当時も不動の人気を誇っていた。その人気ぶりや今日への影響を考える限り、芳年の存在は当時においても現在においても決して無視できない。

 芳年が手懸けた「月百姿」は晩年の傑作として知られる。これは珍しいことに全部でぴったり百図ある揃物で、そのすべてに月が登場する。明治二十年代、浮世絵研究が盛んになる初期頃に活躍した研究者・飯島虚心(1841〜1901)は芳年について「晩年の月百姿の綿画の如き、古人の未だ画かざる所を画く甚妙也」と述べており、当時既に「月百姿」が芳年の代表作と見なされていたと分かる。「月百姿」は当時において、そして現在に至るまで、芳年の代表作・集大成とされているのだ。にも関わらずその研究は残酷絵との比較から提出される程度で、「月百姿」自体を積極的に言及する動きは、私見では昭和四十九年(1974)の『美術手帖』十一月号のみである。

 本論では、月岡芳年画「月百姿」に表われる歴史的事項に取材した作品を、明治美術界の新概念であった「歴史画」の視点から捉え、明治「歴史画」一般や従来の浮世絵との相違点または共通点、連続性を明らかにし、明治「歴史画」の流れの中における揃物「月百姿」の位置を検討した。

 第一章では諸々の社会現象と共に、「月百姿」成立以前の浮世絵界や明治のアカデミックな美術界の動向を、本論で注目する「歴史画」の視点から考察した。「月百姿」の一作目は明治十八年(1885)十月に出版された。この年、フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa,1853〜1908)の「日本画題の将来」と題する講演が行われた。ここでは、以後の日本美術界の方向性を決定し且つ基底を成していく「歴史画」の重要性を唱えている。翌年の講演「日本歴史画の将来」において、その考えはより明瞭になる。このように明治二十年代に入りようやくアカデミックな美術界が「歴史画」に着手するのに対し、「月百姿」歴史画は明治十八年から同二十四年に刊行され、すでにアカデミックな美術界に先行している。

 明治美術界の唱えた「歴史画」は「大画面」によって皇国史観の表出を目指す、イデオロギーと結合したものだが、一方芳年の歴史画はフォーマットや受容者に制約があった。両者の変遷を並行して辿るとともに、明治歴史画のパイオニア・菊池容斎(1788〜1878)と比較して芳年の「月百姿」に至る表現・作画姿勢の変化を捉えた。

 第二章では、「月百姿」の全作品を、題材・表現・主題などの点から通覧し、且つ受容環境がそれらにどのような影響を及ぼしたのかを、歴史画概念との関わりから考察した。受容者層は主に庶民である。庶民の受容姿勢は、芳年の死後版元によって作成された、明治二十五年刊行の「月百姿」目録から多くを推測した。そして具体的に作品を取り上げ、技法面での工夫を空摺の触覚的表現に見た他、観音の「月百姿」に対する歴史的文化基盤による謎解き、見立ての機知の存在を明治二十五年の目録によって確認した。

 第三章では明治期の展覧会に出品された多くの「歴史画」と、「月百姿」の歴史画との共通画題として神話上の人物、忠臣を挙げ、明治「歴史画」完成期の表現との相違点・共通点から「月百姿」歴史画の先見性を見い出し、「美術作品」としての位置付けを試みた。

 「月百姿」中、神話上の人物・日本武尊を描いた「小碓皇子 賊巣乃月」(明治19年か)という作品がある。容斎を明治元年頃より本格的に摂取していた芳年は日本武尊をこの作品で初めて容斎の『前賢故実』の場面や図様に倣っている。それ以前の「大日本名将艦」(明治11年)や「大日本史略図会」(明治13年か)、「芳年武者无類」(明治16年)などに描かれた日本武尊は、『前賢故実』の「日本武尊」と場面設定・動態描写が異なる。またタイトルには「日本武尊」ではなく「小碓皇子」の名を記している。これら「月百姿」以前の作品との相違点から、受容者に歴史を読み解く文化基盤が確立していたことや、芳年が有職故実や容斎の『前賢故実』に基づき、歴史を実体化しようとした姿勢が窺える。

 また、「月百姿」の歴史場面の提示方法とその効果を「保昌 源野月」(明治21年)の画面構成や、覗き込む視線に触れて検討した。「保昌 源野月」では保昌、袴垂をともに後ろ向きで描いている。人物を後ろ向きで描くことで観者の視線を画面中へと引きずり込み、そこに描かれている歴史場面を目のあたりにさせ、次の展開を想像させる。歴史場面に立ち合い主体性を持った観者に感情移入の効果を与える。と同時に、直接的ではなく後ろ向きの構図は、客観性を生み「史実」であるような印象を与える。そして芝居を見るような娯楽性をも生み出すのである。覗き込む視線については画面で起こっていない場面を覗く人物を描いたものや、画面近景に遮るものを描き、観者がまさに覗見する立場になるようなものを取り上げ検討した。

 本論は、以上の一章から三章を通して「月百姿」歴史画の、「歴史画」としての表現効果や魅力を探った。「大判」という、現在のA3サイズにも満たない小さなフォーマットに、観者の頭の中の物語を展開させる工夫を各所に施した絵を、芳年は「月百姿」で描いた。空摺りの触覚的表現や謎解き、見立てなど、そこには浮世絵として鑑賞するスタイルを最大限に活かそうとする工夫がある。そして「月百姿」歴史画の表現が持つドラマ性は、明治三十年代にかけてアカデミックな画壇が描いた「歴史画」とほぼ同じくし、ここに「月百姿」歴史画の先見性が感じられる。

 しかし明治三十年代の「歴史画」が愛国心形成の役割を担ったのに対し、「月百姿」は国策に適ってはいない。おそらくは芳年自身に、容斎学習を通じて「日本」という国家意識や「日本人」という国民意識が芽生えてこそ描くことのできた作品といえる。現在の私たちが無自覚のうちに持つている「日本」「日本人」といった枠組みの形成段階、近代国家の成長期に日本の「歴史」に取材し、歴史の美しさや尊さ、無常などを芳年は巧みに描き出している。当時としては懐かしい感覚を引き起こしながらも、新鮮な視点を持つていたのだ。ここに新しい歴史画の萌芽を見ることができる。

 芳年は、そして芳年作品は、「最後の浮世絵師」「最後の浮世絵」ではなく「最初の」何かになる可能性を持っている。そこには歴史画の視点に限らず多色刷木版画として、あるいは漫画やイラストレーション、メディアとして様々な切り口が考えられる。芳年作品の美術史的な意義を求めるとき、これらの視点は非常に有効であろう。と同時に、今日の漫画やイラストレーション、メディア等の社会的・美術史的意義を検討する際にも、芳年作品は重要な役割を担う可能性を帯びている。

 「月百姿」を含め全ての芳年作品を、芳年側からだけではなく「歴史画」や版画、メディアなど様々な側面からアプローチし、再検討することが今後の課題といえる。それらは「日本」美術誕生期の重層性・多様性を浮き彫りにしてくれるはずである。

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