新田 優子

 卒業論文要旨

輪島塗における近代作家の成立


 輪島は能登半島の北端に位置しており、伝統工芸「輪島塗」の産地として有名である。一方、昭和以降の特色として、漆芸作家が多数輩出されていることは輪島塗の一大転機だったと考えられる。輪島塗における美術工芸家の誕生の背景には、一地方としての工芸品産地であることと、近代の新しい動向である展覧会の存在とそこでの価値判断が大きく作用している。本論は、工芸作家成立以前の輪島塗の漆工品産地としての存在を明らかにした上で、中央での工芸界の変遷と、それに対応する輪島塗の状況を並列して考察した。これによって現在の輪島塗の美術工芸的傾向の発端とされる、沈金の前大峰を始めとする初期の作家達の出現について新たな視点を見出すことを試みた。

 第1章では、輪島がどういった歴史・技術の下に生産されてきたのかについて述べ、更に全国的な中での位置づけを試みた。現在の輪島漆器の技術は18世紀前半には確立されるが、「布着せ」、「本堅地」、「池緑引」などの工程には、漆器を堅牢にするための輪島特有の手法が見られる。主に膳椀のセットが中心となって生産されており、これらは行商によって各地農村の素封家を顧客として販路が拡大された。行商は分業化された生産体系の頂点に位置する塗師屋によって行われ、この商法は昭和初期まで続いた。

 加飾には沈金・蒔絵があるが、特に沈金は蒔絵に比して安価で、実用漆器に附して耐久性があることなどを要因に、国内での沈金技術が途絶えつつある中、輪島では盛んに行われ、その厚い漆層の上で独自の彫技の発展を見せる。しかし加節業は塗師屋の下請け注文によって成り立っているため、仕事は制限された。また宴席用の漆器生産が多いため、明治以降盛んに施されるようになっても、その意匠は四君子、松竹梅、鶴亀筆が多く、表現としては発展性に乏しかったといえる。

 輪島塗は以上の生産体系や需要から日用漆器産地としての位置づけがなされている。これは幕府や藩という強力なパトロンの庇護下にあった東京・京都・金沢といった地の漆器とは基本的に異なるものであったということを意味している。

 第2章では、明治・大正期の工芸界の流れから、漆芸界と輪島塗の動向について考察した。明治維新によりそれまでの庇護者を失い混迷する工芸関係者にとっての活動の場は、政府の勧業策により海外での万国博覧会や国内の内国勧業博覧会に限られ、工芸品は専ら産業品としての役割を担わされた。それゆえ他の美術とは区別され、中央では芸術指向の強い独自の工芸活動団体があったものの、明治40年からの文部省主催の美術展覧会(文展)にも工芸は除外されている。

 大正期も工芸は政府の輸出振興策の影響をうけ続けた。海外からの指摘により意匠図案の改良が急務となり、これを奨励する目的を兼ねて大正2年農商務省図案及応用作品展覧会(農展)が開催される。農展は大正期唯一の全国規模の宮展であったため、工芸関係者はすべてここに集中して出品した。その結果、産業工芸と美術工芸が一つの展覧会に混在することとなった。その間、芸術的価値を主張する工芸家の運動が盛んになり、文展(大正12年からは帝展)への参入を要望する気運が高まっていく。昭和2年の第8回帝展より第4部美術工芸が開設されるまでに工芸界にあったこうした動きは、図案向上も含め旧来の工芸の踏襲を避け、新時代の工芸を築く意識が養われる結果を生んだと指摘できる。

 また、具体的な背景としてこの時期の教育・研究試験期間の働きに着目した。中央では東京美術学校をあげ、美術工芸家の育成の基盤があったことを述べた。これに対応して、輪島と密接な関係をもった金沢の石川県立工業学校・石川県工業試験場・石川県商品陳列所をあげ、これらが中央との連絡に果たした役割について考察した。これらの機関は地場産業の振興に加え、諸工芸の振興・育成に力を入れ、機関関係者のみならず地元の業界、ひいては県内全てを網羅した指導を行った。指導者には中央の教育を受けた人物があたり、技術的指導から啓蒙活動に至るまでの一切を取りはからった。農展への出品はこれらの機関指導者と地元作家の協同によるものも多い。図案の指導も積極的に行われ、商品陳列所の施設で多数の展覧会、競技会、共進会の類が開催された。こうした機関を中心として金沢は中央と結びついていた。輪島で開催された共進会や競技会には産業振興の目的が第一であることが窺え、金沢における展覧会にみられるような美術工芸的要素は認められない。明治期以来輪島は、産業漆工品における販路と生産高の拡大に傾注しており、加飾技術においては沈金の線彫りによって非常に密で豪華なものを生み出しているが、その意匠図案には大きな革新はなかった。しかし、一部の工芸家を志す者の動きが金沢での展覧会への出品や、農展への出品によって指摘できる。後に帝展で活躍する工芸作家が農展に出品している事実は中央、他方問わずに認められ、輪島からの出品も同様と考えることができる。農展への金沢の指導者との協同出品という方式や、共進会における金沢や中央からの指導者の招聘は、輪島の金沢を中継とした中央との関係が読みとれる。そして、こうした展覧会への出品から、彼らの美術工芸に対する意識を見ることができ、更にそこには金沢及び中央からの啓発が大きく影響していると指摘した。

 第3章では、帝展への出品作家の中から、大正期から活動がみられた前大峰を中心に論じ、輪島における初期の作家の誕生とその背景について考察した。輪島塗はその立脚している立場が本来産業的なもので、中央の工芸事情とは異なり、美術工芸作家を育成するための設備が存在せず、また情報も不十分であったといえる。これを補ったのは指導者の存在であった。それまでの輪島塗の産業目的に沿った加飾の意匠図案は、題材にも構成にも発展性を欠いていたため、作家達が最も急務としたのは図案の改良だったといえる。この間題に関して大きな役割を発揮したのは張間喜一であり、波は指導者として作家に図案を提供した。また、図案の手直しや提案など、その度合いを問わず初期の作家達に及ぼした影響は大きかった。輪島からの中央への進出は、こうした指導者による援助を必要としたのである。

 この事実を踏まえた上で、前大峰の作品を初期と後年において比較し、作品に対して当時行われた図案の指導が及ぼした影響についての検討を試みた。前大峰は、従来の沈金技術を飛躍的に発展させ、独自の表現を開拓している。後年になるにつれての特徴は、モチーフの写実や量感表現に磨きがかかり、これを活かすための図案を工大していることがあげられる。結果的に、図案の指導を受けた作品は明日にはならなかったため、他の作家に関しても指導の影響力は未知数であり、問題として残されることとなった。しかし、本来東京や京都のような美術工芸品を制作するという基盤が存在しなかった輪島にとって、中央展という全国的な場への出品が作家達の図案に対する意識や関心を育てたであろうことが指摘できる。

 本論は美術工芸に対する制作者の意識が、展覧会という発表の場と深い関わりを持っていることに着目し、それによって推移する工芸界の動向に輪島塗を関連づけて考察した。そこで、一地方である輪島が金沢という中継地を通して中央と結びついた上で、近代作家を生み出すという背景について論じた。

     芸術学     


[金沢美術工芸大学HOME]