野島 夕海子

 卒業論文要旨

「見つめる人」ピナ・バウシュ


 我々は何を求めて劇場へ足を運ぶのだろう。もちろん「楽しみ」のためである。娯楽のためである。しかし、本当にそれだけなのだろうか。劇場には娯楽以上の何力めミ潜んでいるのではないだろうか。

 ドイツの中規模工業都市、ヴッパタール(Wuppertal)で25年に亙って舞台を創り続けてきたピナ・バウシュ(Pina Bausch)の作品は、我々が劇場に求める甘い期待を、思いも寄らない方法で裏切り続けてきた。本論では彼女の作品の幾つかに焦点を当て、彼女が舞台に現出させた世界を追究したい。

 まず、第一章では西洋における舞台芸術としての舞踊の歴史を編年的に追い、さらに、ピナ・バウシュの作品の特異点を明示する。第二章では『春の祭典』、『カフェ・ミュラー』、『アリア』の三作品を取り上げ、その内容を記述し、分析を加えた上で、ピナ・バウシュの作品が持つ現実感について考察する。

 元来「踊るもの」であったダンスは、十六世紀から十七世紀にかけて「見るもの」へと転換した。この決定的な転換には、劇場という形式が深く関連している。今日の劇場において、舞台上の演者は専門的技芸を見せる者として観客と分け隔てられ、明確に区別されている。観客が舞台に演者として参加する可能性は原則的に絶たれているのだ。しかし、劇場の成立以前は、観客と演者の区別は曖昧なものであった。

 「見るもの」としてのダンス、すなわち「バしエ」の起源は、宮廷舞踊に求めることができる。「バレエ」という言葉は、もともと宮廷のフロアで廷臣達がお互いにダンスを披露する余興全般を意味していたのであるが、劇場の出現により、専門的な技術を習得したダンサーによる踊りを「見る」「バレエ」へと変容していったのである。その結果、観客の視線の方向が定まっている劇場に対応して、効果的に踊るために、「バレエ」は様々な技術を開発し、専門職業化の道筋をたどる。劇場という形式と、「バレエ」の専門職業化といつ二つの要素は、舞台上のダンサ-と観客の分離を決定的なものにした。

 二十世紀初頭から、「バレエ」以外の「見るもの」としてのダンスが登場し始める。劇場で発達した「バレエ」は、本来、物語の再現を目指すもので、ダンスはその媒体にすぎなかった。すなわち、身体の運動による内容の伝達を意図している。ところが二十世紀に入るとダンスは「バレエ」の枠に捕われることなく、「内容の変換」、「内容からの開放」という二つの方向性を持ち、変容して行くこととなる。まず一方で、モダン・ダンスは物語ではなく、振付家の個人的な情動を内容とした。他方、内容からの開放を求めた振付家達は意味性を排除し、ダンス自体の自立を追求した。

 ピナ・バウシュは前者のモダン・ダンスの系譜に位置付けることができるが、その内容は他のモダン・ダンスと一線を画している。バウシュの作品は、彼女が捉えた他者や世界の記述と言えるだろう。彼女の主題は男女の愛憎や、世界と個人の関係性にある。

 彼女の作品は、それまでのダンスの概念を覆すものであった。いわゆる振付的な要素ではなく、演劇的な要素を多用しつつも、決して物語的ではない。例えば、『カフェ・ミュラー』という作品に、男と女が何度も抱擁を繰り返す場面がある。二人の盲目的な抱擁が次第に加速する過程で、愛情行為に潜む暴力性が露呈される。観客はこの場面でダンサ-の専門的な技術ではなく、行為そのものを目撃し続けることになる。しかも、舞台は幾つかの別個の場面が同時進行で展開され、観客は全てを捉えることができない。個々の場面は演劇的だが、一貫した筋書が存在しないために、場面を作品内に位置付けて包括的に解釈する可能性は絶たれてしまう。これは、バウシュの作品が空間的・時間的な多層性を孕んで構成されていることに起因している。

 さらに、バウシュは、舞台を統制する振付家というあり力を放棄してしまう。バウシュは、彼女の質問に対してダンサー達が即興的に答えた動きや行為をもとに作品を構成する。従来の振付家とは、ダンサーに動きを振り付ける主体であり、いわば絶対的な存在であったが、バウシュの場合、最終的に決定を下し、加工して作品を構成するのは彼女であっても、質問に村するダンサ-の返答としての動きや行為を予測しているわけではない。舞台には、振付家であるバウシュ自身が制御しきれないものが溢れることになる。

 バウシュの作品には優れた技術や心踊る物語は存在しない。舞台にあるのは、現実である。観客は彼女の作品を、フィクションではなく、眼前で展開される紛れもない現実として体験することになる。このことは劇場の盲点をついていると言えるだろう。何故なら劇場という空間において、観客は舞台と一線を画し、安全な立場が保障されているからだ。観客は「見ること」によって舞台を評価する絶対的な権力を持ちながらも、舞台を現実ではなくあくまで虚構として捉えることで、その権力に無自覚でいられる。そのため、劇場における当事者の一員であるという意識が希薄である。観客は良質の舞台によって、その作品が「いま・ここ」で進行している現実なのだという事実を、忘却することができた。

 人間は他人の出来事であっても、自分がそれに関与している場合、なんらかの行動を起こさずにはいられないはずである。ところが、これまでの上演芸術や、現実を映す映像などのメディアでは、見る者が行動を要求されるものは存在しなかった。「見る」という絶対的な権力を行使しながらも、そのことに無自覚でいられたのだ。何故なら舞台や映像で起こっている事柄を、フィクションとして片付けてしまえるような機能が働いていたからである。だが、バウシュの舞台では、観客を守るはずの「舞台はフィクションである」という前提が、機能しない仕組みになっているのだ。それゆえに、観客は生身の人間として、舞台に起ころ数々の出来事と対峙せざるをえない。

 彼女の作品における様々な行為は、当然のことながら、あらかじめ決定されたものの再現である。我々の予測不可能な普段の現実とは同じものではない。しかし、観客は舞台で起こっている出来事を現実として捉えてしまう。彼女の舞台は再現でありながら、それを現実として観客に捉えさせる巧妙な仕掛けが働いている。それはバウシュが、行為に「現実である」ということを表示して舞台に上げるからだ。観客は、物語に対する丈感や技巧のすばらしさへの驚嘆といった、あくまで他者の出来事として舞台を捉えるのではな<、観客自身の「いま・ここ」の体験としてバウシュの舞台を捉えるしかない。

 その時、観客は無力な自分の存在に気付かざるをえない。何故なら、舞台で起きていることに対して権力を行使する加害者の立場を嘆いても、自身はいかなる行動も取れないからである。惜しみない拍手を送ることはできても、舞台を変えることはできない。観客は見るという権力からは逃れられないと知りつつも、せめてしっかりと見て、受けとめようと努める。しかし、バウシュの舞台を隅々まで全て見ることもできない。彼女の作品は、我々の世界そのもののように、多層的で余りに複雑すぎるのだ。

 こうしてピナ・バウシュの舞台で観客は、劇場という空間において現実を生きることになる。そこでは観客がそれぞれの人生を生きなければならない。そして、当事者の一人として、劇場で起きる出来事に対して責任の一端を担うことになる。ピナ・バウシュは、我々が直面しているどうしようもなく複雑な世界に、観客と共に真撃な態度で臨もうとしている。彼女の舞台は我々に対する切実な呼びかけなのだと思う。彼女の視線が向かう先は、我々の人生なのだ。

     芸術学     


[金沢美術工芸大学HOME]