宮原 史帆

 卒業論文要旨

「根来」に関する考察


 現在「根来」「根来途」「根来物」などと呼ばれている漆器は、鎌倉時代から安土桃山時代に紀州根来寺の僧侶が漆器を製作したという伝承に由来するもので、一般には黒漆で中塗りをし、その上に朱漆を塗った朱漆器の俗称として使われている。骨董の愛好家や茶人を主として量感溢れる造形美、漆の塗肌や朱の色合い、表面の朱漆が摩耗した部分から覗く中塗の黒漆の斑模様の趣などが賞美されているが、これらは本来作為によるものではなく長年の使用に耐えて生まれてきたものであり、使い手と器との結晶の如き美である。

 根来寺は和歌山県那賀郡岩出町根来に位置し、元来は高野山において覚鑁上人が開創した伝法院にはじまる。高野山金剛峯寺方との抗争により正応元年(一二八八)現在の地に完全に移転してからは、新義真言宗の本拠地および紀伊の有力な権門寺院のひとつとして隆盛したが、天正十三年(一五八八)に豊臣秀吉により征伐された。

 現在確認される限りでは、「根来」の名称が文献上にあらわれるのは江戸時代以降である。文献から窺うに、江戸時代の「根来」に対する認識は「堅牢な朱漆器」で「根来寺で製作された」ものであり、「根来塗」ではなく「根来」の呼称が一般的であった。「根来塗」の呼称は現在のところ、明治十一年(一八七八)に黒川真頭が著した『工芸志料』が最も早く確認される例であり、黒川氏は「根来寺で作られた朱漆器」と論じている。しかし根来寺で作られたと推測される漆器はわずか数例であり、技法においても一般の朱漆器と比較して際立った特徴が無いため「根来」「根来塗」とそうではないものとの区別がつけられず、現代では根来寺産であってもなくても、上塗りの朱が磨滅するほどに長年の使用に耐えた朱漆器の代表として認識されている。

 ここに「根来」「根来塗」の定義を明確に定められない他の要因をまとめた。
(1)朱漆器が大部分を占めるが、中には黒漆や弁柄漆で塗ったもの、朱漆と黒漆、朱漆と透漆、弁柄漆と透漆で塗り分けられているものがある。
(2)根来の名を借りた類似品が多い。朱漆を施さず全体を黒漆塗にした「黒根来」、黒漆地に朱漆で又は朱漆地に黒漆や透漆で模様を描いた「絵根来」、彫刻をした木製器物の上に朱漆を塗った「彫根来」、上塗の朱漆を研いで意図的にかすれ模様をつくった「京根来」、吉野産の朱漆器の「吉野根来」、春日大社で使用された「春日根来」などがある。
(3)器物の種類は飲食器を中心に、仏具、神饌具、調度、武具など多様である。
(4)紀年銘のあるものから製作年代、製作者、製作地が同一ではないことが分かる。特に製作年代は、狭義には豊臣秀吉により根来寺が征伐された天正十三年までであるが、広義には平安時代から現代に至るまでのものが含まれている。
(5)現代では、意図的に上塗りの朱を研出して中塗りの黒漆との模様をつくる技法も「根来途(研出し根来)」と呼ばれている。(この場合、根来寺が存在していた鎌倉から安十桃山時代の根来の遺品は「古根来」と称される。)

 よって、かつては「根来」と呼ばれなかったものが現代では「根来」と呼ばれるようになったり、逆に「根来」と呼ばれていたものがそうでなくなったりしたものも存在する。例えば紀年銘をもつ「根来」の遺品をみると、鎌倉から室町時代に集中し、寺社に伝来したものが多いことが分かるが、中でも東大寺に伝来するものが最も多い。このことはもはや根来寺で製作された漆器が「根来」ではないことを示唆している。寺社に伝来したものが多いのは、漆自体が高価なためと朱漆の顔料である辰砂が貴重であったために、朱漆器は近世に至るまで宮廷の儀式や年中行事用具、仏寺の公式用什器や貴族の日常品といった限られた一部の範囲でしか使用されなかったためである。

 「根来」が「実用」の漆器から「鑑賞」の対象となったのは恐らく明治時代からと考えられ、明治四十一年には奈良帝室博物館において、最初の展覧会であると思われる「特別陳列 根来漆器」が開催されている。また昭和三十年代は、「根来」ブームと名付けられるほどに各地で展覧会が開かれ、研究者および愛好者が論考を雑誌に寄せ、新たな視点から「根来」が捉えられた。その一例としては、器形に中国宋、元、明代の工芸の影響をうけているものが多いことから「平安時代からの伝統の上に立脚し、中国工芸の要素を取り入れたものを中心とする中世的な特色を具える漆器」と新たに解釈されたことや、これを受けて溝口三郎氏が和様式、中国様式(唐様式)、折衷様式の三様式に分類したことが挙げられる。また、中国の陶磁器に限らず、仏具に代表される金属器の影響を受けていることも「根来」にみられる特徴であろう。

 「根来」の遺品はそれぞれ製作年代、製作者、製作地が異なり、製作方法や材料、道具が全て一様ではない。器胎が木製素地であることは「根来」の条件のひとつであるが、素地の製作方法としては挽物、指物、曲物、刳物、これらを合わせたものと様々な技法が用いられている。外観は同様でも内部構造は個々の遺品で異なり、製作方法も多様で、工人がそれぞれ工夫を凝らし試行した結果であろう。塗りも木地と同様、一通りには語ることはできず、幾通りもの技法が推測される。今回は上塗りの朱の含有量における実験を行ってみた。漆器の器胎は漆によって覆われているため直接目に見ることはできず、X線照射にかけずに内部の木地構造や材質などについて言及するのは困難であるが、平成十年に石川県輪島漆芸美術館で開催された「特別展 根来―その姿と色―」において詳細に「根来」を観察する機会を得た。また会期中に漆芸の研究会に参加し、筆者も大いに参考にさせて頂いた。

 本来漆塗りは分業の世界であり、また漆単体ではほとんど成り立たず、何らかの素材との組み合わせで成り立つという独特の性質をもつ。従って素地作り、漆塗り、加飾など多くの工人の努力や、木胎や陶胎や金胎など他の素材との接合を必要とする。器物の表現の中心となることの稀な立場の漆塗りが「根来」ほど主体性をあらわすものもないだろう。

 日本では古代より、外国から持たらされた文化を諸々の物に取り入れ同化させてきた。工人の努力だけではなく、鎌倉時代の質実剛建な気風や室町時代の唐物尊重の風潮などが力強い根来をつくらせた。「根来」のように、加飾を施さない素文の漆器で、かつ日常生活で使用するいわば「道具」としての漆器が鑑賞の対象となっているのは漆芸史において特異な存在といえよう。

 なお本論では「根来」と「根来塗」の用語の位置付けを、昭和六十年に河田貞氏が著書『根来』において提言された、根来寺産の漆器を「根来塗」とし、それに類似する良質な漆器を「根来」と呼ぶ内容に従った。

     芸術学     


[金沢美術工芸大学HOME]