新着情報TOPICS

【資料紹介】高屋肖哲資料① 高屋肖哲と芳崖「悲母観音」模写

2017年09月06日

【資料紹介】高屋肖哲資料① 高屋肖哲と芳崖「悲母観音」模写
【資料紹介】高屋肖哲資料① 高屋肖哲と芳崖「悲母観音」模写

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

狩野芳崖の「悲母観音図」はその絵画性の高さと共に、近代日本画の出発点に位置付けられる日本美術史のなかでも特別な作品のひとつです。
明治21年に制作された「悲母観音図」は絶筆であり、芳崖の生涯における集大成とも言えるでしょう。

肖哲資料の中には芳崖の「悲母観音図」の模写が数点残されています。
なかでも、「観音-1」は実物とほぼ同じ大きさの着色された模写であり、諸所に詳細な書き込みがなされているのが特徴です。作品の模写によって画業の研鑽を図った肖哲の、学びの姿勢を感じることができます。

肖哲の描いた芳崖の「悲母観音図」の模写は「観音-1」のほかに、「観音-8」、「観音-9」、「観音-116」が残っています。「観音-8」「観音-116」は観音、山、雲などすべてのアウトラインが墨線で描き起こされています。特に「観音-8」には元の絵から正確に写し取るためのガイド線が引かれています。また、「観音-9」は観音と赤子だけが描き起こされており、主線のない雲の部分が白く抜かれています。模写といっても、各図それぞれ性格が違っているのがわかります。

制作年ですが、「観音-9」が昭和9年である以外は不明であり、経緯や前後関係は現時点ではわかっていません。順に段階を踏んだ模写であったかもしれませんし、バラバラな時期に制作されたのかもしれません。今後の研究が待たれます。

肖哲資料には以上のような模写の他にも、「悲母観音図」から派生させたさまざまな観音図のバリエーションが残っています。これらの資料から、芳崖の「悲母観音図」が肖哲に与えた影響の大きさをうかがい知ることができるでしょう。

肖哲の「派生「悲母観音図」」(仮称)については、また別項でご紹介いたします。

(美術工芸研究所 非常勤学芸員 幸田美聡)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

平成9年から平成11年にかけて行われた、金沢美術工芸大学美術工芸研究所共同プロジェクト 「高屋肖哲の絵画資料研究」において、高屋肖哲関係資料の大々的な調査・整理が行われました。その後、これらの資料は寄贈され、現在は大学のコレクションのひとつとなっています。本資料については昨年度から調査と整理が再開され、現在は高屋肖哲の研究も視野に作業が進められています。

また、近年では平成28年4月に「高屋肖哲―模写・資料から見る画家の絵画学習と研鑽―」が、10月に「知られざる異才 高屋肖哲」開催され、本コレクションが一般に公開される機会を得ました。

高屋肖哲の履歴については、『狩野芳崖伝』(昭和10年)の著者であり、『芳崖遺墨』(明治35年 画報社)の編者である以外ほとんど注目されてきませんでした。しかし、近年では関連の展覧会も開催予定であり、今後、注目度の高い画家(絵師)であります。
本資料紹介が、高屋肖哲という人物と、近代美術の魅力を知るきっかけとなれば幸いです。

【高屋肖哲について】
高屋肖哲(1866-1945)は慶應2年(1866)、岐阜県大垣町の士族高屋海蔵の次男として生まれる。19歳で上京し、狩野芳崖に師事。芳崖の死後は、まわりの勧めもあって東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学。その一期生となる。卒業後は翌27年(1894)から30年(1897)まで石川県工業学校に勤めたが、退職。その後、東京美術学校図案科助教となるなどの経歴がわかっている。
肖哲の生涯は長らく不明であったが、近年の調査により図案科退職後は関西で仏教美術研究に没頭していたこと、高野山で寄宿生活をおくっていたこと、晩年は石器の研究に熱中していたこと、九州や淡路を放浪していたことなどがわかっている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※ページ内の文章や画像の転用、転載、加工は固く禁じます。
※画像の掲載や利用には申請が必要です。美術工芸研究所までご相談ください。

一覧へ戻る
PAGE TOP