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【資料紹介】高屋肖哲資料② 絵画のできるまで―下図・下絵に見る肖哲の制作過程(更新日2017/10/27)

2017年09月10日

【資料紹介】高屋肖哲資料② 絵画のできるまで―下図・下絵に見る肖哲の制作過程(更新日2017/10/27)
【資料紹介】高屋肖哲資料② 絵画のできるまで―下図・下絵に見る肖哲の制作過程

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本学の高屋肖哲資料の特徴はなんといっても、その量の多さでしょう。
完成された作品は含まれませんが、下絵や下図、模写、デザイン画などを含む約645点の絵画資料が収められています。
これらの資料からは肖哲がどのような作品を描いていたかはもちろん、肖哲がどのように作品を作っていたか、という制作工程を知ることができます。

①小下図
小下図(こしたず)とは、作品をつくる前にどのような構図にするかを決める下図です。いろいろなアイディアを実際よりも小さいサイズで描き、構想を練ります。本学の高屋肖哲資料にはこのような作品制作のための小下図がたくさん残されています。

②下図
下図(したず)とは、小下図のアイディアを実際の作品にどう落とし込むかを考えるための下図です。ここでは、3つの構図がピックアップされ、実際に描くとどのようになるか試されています。こうして比較を重ね、作品の構図を検討していきます。

③下絵
下絵(したえ)とは、実際の作品の元になる絵です。日本画顔料を使用する場合、下書きの上にそのまま顔料はのせられませんので、一度別の紙に等身大の下絵を描いたのでしょう。これは、縦121.0sm×横175.2cmととても大きなものです。このように等身大の下絵が残っているということは、この絵は実際に作品として描かれていた可能性が高いと言えます。

師・芳崖をはじめ、近代以降の作家にこのような小下図や下図が残っているのは珍しくありません。一般にこうした資料は、完成された絵画作品より一段低く見られがちです。しかし、完成に至るまでの作家(絵師)の苦悩や研鑽の跡がうかがえるという点で、下図や下絵といった絵画資料もまた立派な作品だと言えるでしょう。
特に肖哲の場合、現在特定されている完成作品が少なく、これらの多種多様な下図や下絵が彼の制作姿勢を現代に伝えています。

(美術工芸研究所 非常勤学芸員 幸田美聡)

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高屋肖哲資料の大々的な調査・整理が行われた、金沢美術工芸大学美術工芸研究所共同プロジェクト 「高屋肖哲の絵画資料研究」は、今から20年前の平成9年に開始され、3年の月日をかけて平成11年に終了を迎えました。

調査参加者としては、上田恒夫先生(金沢美術工芸大学教授・美術工芸研究所研究員/当時)、太田昌子先生(金沢美術工芸大学教授/当時)、藤井由紀子先生(杉野女子大学講師/当時)、堀菊子先生(杉野女子大学講師/当時)、宮本和郎先生(日本画家)が代表として名を連ねられますが、他にも、青木茂先生(町田市立国際版画美術館館長/当時)など多くの関係者のみなさまがこのプロジェクトに参加されています。
また、先生方だけでなく作品の調査や翻刻などには多くの学生が参加していました。膨大な『雑事抄録』の翻刻の裏には、多くの学生たちのちからがあったのです。

【高屋肖哲について】
高屋肖哲(1866-1945)は慶應2年(1866)、岐阜県大垣町の士族高屋海蔵の次男として生まれる。19歳で上京し、狩野芳崖に師事。芳崖の死後は、まわりの勧めもあって東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学。その一期生となる。卒業後は翌27年(1894)から30年(1897)まで石川県工業学校に勤めたが、退職。その後、東京美術学校図案科助教となるなどの経歴がわかっている。
肖哲の生涯は長らく不明であったが、近年の調査により図案科退職後は関西で仏教美術研究に没頭していたこと、高野山で寄宿生活をおくっていたこと、晩年は石器の研究に熱中していたこと、九州や淡路を放浪していたことなどがわかっている。

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最終更新日 2017.10.27

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