秋成の連想と反復
----『膽大小心録』小考
一 論理と連想
二 記憶と反復
古典文学大系『上田秋成集』に収められた『膽大小心録』は、中村幸彦氏の注釈が備わり、非常に読み易くなっている。その詳細な注釈の内には、秋成の他の作品・文章との類似の指摘が加えられ、さらに理解を深めるに役立つ。今、こうした他との類似の指摘を拾い読みして見ると、いろいろと気付く所がある。それについて、若干述べてみたい。
一 論理と連想
類似点を一番数多く指摘されているのが、『遠駝延五登』である。以下しばらくそれを見る。
『膽大小心録』四段は、学問における「私」を話題とした条だが、これが『遠駝延五登』の冒頭部分にほぼ当嵌まる。
陶淵明云。書は其いふ所の大意をよみ得たるにて、其余はしれぬ事は其儘にしておけといひし。絃のかけたらぬ琴ををかいなでゝ、趣をのみ知りて遊びしと云と同談也。此ことわりよし。翁が此論説をにくみて、‥‥(四段)。
陶淵明云、書を読てしひて解得ん事、吾は求めす、羲皇一画を引し始に、解説あらす、文王、周公、是を演て爻象をなし、孔子、是に辞を繋て致らしむに倣ひ、書典こと/\、解をつとむとて私をくはへ、いにしへの伝へ有か如に云は、なへてさかし人の心也、其大意を会して、詳なる事を索めされとそ。絃無き琴をかいさくりて趣を楽しまれしと云は、是也(『遠駝延五登』)。
『膽大小心録』は、『遠駝延五登』の要約といってよい内容になっている事が判る。「しれぬ事は其儘に」という思想は、晩年の秋成には随所に見られる発想であるが、続けて五段には雨森芳州『橘〓(そう)茶話』から得たと思われる考えが述べられる。
これが雨森芳州の言葉である事は、『遠駝延五登』異文によっても明らかである。
- 或人云。しいてしれぬ事をしらんとするはかへりて無識じやとぞ。是は聞えたとおもふて、しらぬ事に私くはへぬ也(五段)。
両者の関連は、『文反古』下「難波の。竹窓に」を間におくと、より明確である。
- 雨伯陽茶話に云、神代一巻、不v可3以不2尊重1、然遼闊奥〓(ゆう、幽へんに頁)、弗v究而可也、人欲v求2其的確1、可v謂2無識1矣。寔に知らるましきをあなくり求むるは愚学也(『遠駝延五登』異文)。
- 神代物かたりの奥〓(ゆう)繚濶。究めすしてよし。しひていふ人は。無識也と云しは。よしともよし。しらるましきをしらんとするは。しれ/\し。
いまここで確認しておきたい事は次の通りである。即ち、「しれぬ事は其儘に」という秋成晩年の思想は、陶淵明や雨森芳州の言葉が喚起したものであるのみならず、この思想を述べる時には必ずこの人々がモチーフとしてそこに付随するという事である。特に、陶淵明の緒絶え琴の故事が『遠駝延五登』という書名になっていることからも判るように、思想とモチーフ・エピソードとが不可分なものとして、秋成の中に連想されているのである。
○
さて、知らぬ事を知らぬままにする事は、どういう意味があるか。それは、現在の名声を大事に思うのでなく、後世から誹られぬようにせよ、という事であった。四段では続けて、
韓愈の言うところとする「前の誉れ、後の誹り」という言い回しは、やはり秋成の好む所で、そして必ず、毀誉褒貶はみな主観的な判断に過ぎぬという結論に至る。
- 翁が此論説をにくみて、誰人やらさま%\云狂しとぞ。翁答。
大仏の柱はやけてなく成ぬせゝる蟻どもたんとわひたり
とぞ。韓退之のおしやりし。前のほまれあらんよりは、後のそしりをおもへとぞ。ほめるもそしるもおのれ/\がひく方じやに。(四段)加えて言えば、この韓愈の詩からの連想として成立する言い回しは、遇不遇という観点へと関連付けられて行くようである。『藤簍冊子』巻五「故郷」では、この韓愈の詩に触れて、
- いかにもいへ。毀誉彼我のきらひなく。前のほまれ。後のそしりをもおもはし。なへてはおのか綱ひくかたひ云からかふなり。(『文反古』下「難波の。竹窓に」)
緒絶え琴のエピソードによって形成される不可知論から、遇不遇の命禄論への論理展開も、秋成の中で究めて自然な傾斜として成立しているのである。
- むかしの人も、世にあへるあり、時を失へるあり、其あといともおほかめるを、更にかぞへあげんが煩はしき、世にあへるが賢きにもあらず、時うしなへるが愚なるにもあらず、身の幸ひのおくれさいたち、あひあはぬにこそあらめ、世に遇てほまれとる人の、後におとしめらるゝもあり、楽しとするもうしといふも、求るまゝにはあらぬ、誰があたふるたま物ぞや、(『藤簍冊子』巻五「故郷」)
○
他の例に移る。『遠駝延五登』には、蘇東坡と仏印のエピソードが見える。いわゆる才智論である。
これは、一〇六段に同じ様に見える。
- 仏印、いまた僧ならさる時より、東坡と交り篤し。一とせ夏雨ふらす。帝なやませ給て、都に在る僧を尽して内に入らしめ、道場をまうけ、大旱をいのらしむ。東坡、仏印に告ぐ、侍者の名を冒してみそかに入て、此供奉のさかんなるを観よと。此言に従ひて、侍者にやつして宮中に入。帝、仏印かかたちの魁偉なるを見たまひて、やかて召れて剃髪の命下る。のかるゝ所なくて、遂に僧となる。是本意にあらねは、東坡に売られしよと恨みつゝ休む。噫、仏印か才識の弘きに、平生東坡と交りて、闘論諧謔、一事も敗をとらす。此はかられしに思へは、仏印は英才、東坡は才智具足の人と云へし。才の智に及さる事かくの如し。たゝ智者の心のおそろしき。東坡は佞奸をかねされとも、人を弄ふにおきては憎むへし。(『遠駝延五登』)
『膽大小心録』のほうが、いささか記述が簡略であるが、ほぼ同文の関係にあるという事ができよう。
- 仏印は東坡とうるはしき友也しとぞ。印、俗たる時、宮中の仏場のさかんなるをみよとて、東坡にはかられて、侍者とやつして入内せしに、帝、異相なる哉。法師になれとて、勅命によりて剃髪せしとぞ。仏印の才は東坡にこへたり。論談弁説、是も東坡が敗をとりしに、智に斗られて、思ひかけなく僧となりしを思へば、智といふは大かた悪才也。(一〇六段)
さて、この才智論も、やはり必ず決った展開を持つ。具体的に、歴史上の人物をこの観点から俎上にあげるのである。代表的な人物が、例えば大友皇子である。
右の文での大友皇子観は、伊賀の采女の原である故に人望が無い、父帝の恩寵のお蔭で逆に反感を買った、そして、才能に誇るが故に兄弟・老臣を見下して居た、といった点に要約される。『遠駝延五登』にも、
- 大友の太子は天智の長子にておはせど、伊がの采女が腹にて、人のよせなし。才学いにしへよりならびなく君ゆへに、父帝恩寵あつく、廿一にて太政大臣を授け、万機をうしろみさせたまひしに、王臣おそれつゝしみて粛然たりしなり。よて廿三にて皇太子にすゝませしかば、いよ/\骨肉のしたしみ薄くて、叔父の天武に皆心かよはせしなり。崩御の後、人皆清み原に参りて、大津皆は亡びしなり。是は父天皇の寵遇のいとはやまり給ふなり。大友は才にほこりて、兄弟を侮どり、老臣を見くだし、叔父にはねたくおぼせしなり。(一五六段)
この最後に見える劉徳高の条も、大友皇子論において欠かせない要素の一つである。そして、大津皇子や源実朝なども、同列にこの才智論の代表的人物として語られる。
- 大友の才学を父帝のあつく愛したまへりしか、長子なから伊賀の采女の腹にて、人望やかろかりけん、ふかく思ひはからせて、年甫弱冠に太政大臣を授け、万機を試たまひしに、群下畏れて粛然を歓ひ、就て嗣君に立せたまふにそ、骨肉の妬みを得たまふ。此間釁(すき=隙)をうかゝひ、御叔父の為に天命を遂たまはぬ也き。噫、唐使劉徳高が阿諛を憩して才に誇り、和親の徳を損じ給ふ。(『遠駝延五登』)
『遠駝延五登』二の冒頭でも、再び大友皇子・大津皇子・源実朝が、自己の才に誇る余り佞臣の甘言によって道を誤った例として並べられる。今、源実朝の記述を中心に引用すると、
- 才は花、智は実、花実相そなへし人かたしかし。大友の唐使劉高徳に、臣たるの相にあらずと申を聞しめし、大津は新羅の僧行信に反逆の根ざしをすゝめられたり。又、鎌倉の右大臣の宋の陳和卿と云有髪の僧尼魅せられ、前生の西土へゆきて霊山を見んとて、大船を造らしむ。舟工拙くて海に没す。是も才をたのみて、無益の誹りをもとめたまひしなり。(一五七段)
この後の論調は、必ず、北条義時が公暁をして殺害せしめたこと、実朝の歌の才能についての論評、そして、定家がその才能を妬んだという展開になる。
- 西土の文を翫ふに、詞花のあまりには巧言過て、常に人を損なふ事、彼国の史に目のいたきまで見る所也。其言の巧みに誑かるゝ人、必己か才に誇る煩ひ也。大友、大津、其人にてまします。又鎌倉の右大臣実朝公、宋の陳和卿を召れし時‥‥(『遠駝延五登』)
北条義時の条、藤原定家の条について、『遠駝延五登』のこの部分は『膽大小心録』と順序が逆だが、『茶〓(か)酔言』はより『膽大小心録』に近い。『茶〓(か)酔言』でも才智論として、大友・大津・実朝が並ぶが、この一連を含めて見れば、
- 北条義時おそれて、我家の亡ぶは此君ぞとて、公暁と云弱僧に弑逆させしなり。歌よませ給ふに、古調を好たまひて、群に秀させしかば、定家卿の、此君の歌を見れば、この道のおぼつかなくなるよと、ねたみ給ひしとなり。(一五七段)
- 公は才識御父兄君たちにも踰たまひて、国詩好ませ給ふか、始は京極黄門に学はせしか、其趣を得たまふ後は、万葉集の中に高調なるを師としてよみ出たまへるを、定家卿見奉りて、公の御歌につきて、此道のうたてくさへ成ぬと、独ことしたまへりとそ。されと才をたのみては、陳和卿か為に売られ給ふ也。御齢二十八と云歳に弑せられしは、此君世におはさはいかに成ゆく覧とて、公暁法師をいさなひて、北条が刺せしと云説、往々にいへり。(『遠駝延五登』)
ほぼ、才智論の定型が出来上がっていると言うべきであろう。
- 才は花、知は実也。大友の英才、父帝の寵遇に過て、才にほこり、骨肉にしたしみうすかりしかは、叔父に世を奪はれたまふ也。天武は智略の主也。一たひ僧となりて、よしの山に入、時を待て兵を起し、大津の宮を返し給ふ也。(『茶〓(か)酔言』五九段)
- 大友の才、唐使劉高徳に相せられて心驕り、大津の才、行信といふ僧に言を巧まれて、反逆を思ひ立たまふ。すへて智は足ぬ失也。(『茶〓(か)酔言』六〇段)
- 鎌倉の右大将都に入せし時、宋の陳和卿と云有髪の僧来たるを召れしに、和卿いなみて申、大将殿は天下を治めたまふ大功はおはせと、人命を多く殞したまふ者故、僧たる者の拝すへきにあらすと。大将との咲ふて又召れす。大将との薨去の後に、鎌倉に下りて、実朝公に謁し、面相して涙潜然たり。いふかしみて問たまへは、君は、前生、盧山の我師の、この国に再ひ生したまふ也、御面相、挙動、こと/\く同し、とてさめ/\と泣。此阿諛を甜んせられて、西土にわたり、盧山を見んとて、大船をつくらせしかと、舟工拙にて、人多くのれは、海に沈没す。故に停まられし也。才に驕りて、かく人に超たる所おはせは、北条義時おそれて、公暁と云僧に弑させし也。才の花々しきは、哥よみたまふに、其世に忘れたる古調を思ひ出て、専ら万葉集に習ひたまへり。定家、この公の哥を見奉れは、此道の物うくなるよと、老て悔みたまふと也。(『茶〓(か)酔言』六一段)
○
今あげた『茶〓(か)酔言』をもう少し見る。『膽大小心録』六段は西行の塵外塵中についての言である。
「七日ははれし」云々は、『膽大小心録』に次のようにも見える。
- 桜を雲じやと見たて、又雪じやともいふ事、さいく人一二人に聞うからずと真淵はいはれしとぞ。西行ほどの道人が、とかく雲がさくらに見へ、桜が雲に見へて、よしの山に三とせ行ひのひま/\には、雲じやと云歌たんとよまれたり。そこで翁が曰。此法師の哥は塵外塵中の二つあり。塵中の哥が世に多く云伝へたりき。哥に限らず、何の道でも、芸でも、梅に鴬、道成寺、三輪な事多し。(六段)
- 高ねの雲の花ならはちらぬ七日ははれしとそ思ふ、とは、世外の法師の哥ともなし。すへて此法師は、よしの山の花さへよめは、雲と見て云は拙也。花を雪よ雲よとは、さはく人一二人はしからん、と真淵か云しはよし。法師の哥、塵外と塵中の別あり。塵中の哥は、人つたへてよろこふ。さすかに世に交はらしとすれと、名利はほしき者よ。(『茶〓(か)酔言』五〇段)
『茶〓(か)酔言』においてもこの論旨は、先の五〇段を挟んで、総て盛込まれている。
- 桜を七日花といふはあやまり也。万えう集に、大北人の難波へ御つかひに、龍田山こへて来たるに、さくら花さかりなり。さてよむ、
我いきゝは七日に過じたつた彦ゆめこの花を風にちらすな
この七日は、御つかひのはてがたをかぞへていひし也。はやく事とゝのいて、其あしたかへるに、又哥よみたり。西行が、
思ひやるたかねの鼻の雲ならばちらぬ七日ははれじとぞ思ふ
かしこくよみたれど、実にはあらず。又桜町の中納言の七日の花を泰山府君にいのりて、廿日はあらせしと云は譌也。さらずは物をしらぬ也。さくらの中より、今泰山府君と呼と、虎の尾とよぶは、重弁のみならず、色もふかし。しかれども、しぼみて散ぎははむさ/\し。此種は必ずいのらずとも二十日は有なり。(八四段)
- 桜を七日の花と哥によめと、是は万葉集に、飛鳥の都人の難波へこゆるに、竜田山を行て、さくらの花盛なれは、我いきゝは七日に過し竜田比古ゆめ此花を風にちらすなとよみしかと、其あした御使よくして、又此山をこゆる哥あり。(『茶〓(か)酔言』四九段)
- 桜を七日の物なるを、泰山府君にいのりて、廿日散さゝりしと云は、遅さくらの八重なるは、山陰ならは廿日へなん。 桜町の中納言も、父の信西入道には才学劣たるよ。(『茶〓(か)酔言』五一段)
○
『茶〓(か)酔言』から、もう少しあげる。康煕帝を述べた条で、歴史観・時間論である。
『膽大小心録』でも、この条は同じ論旨で見る事が出来る。
- 康煕帝の聯句に、日月燈、江海油、尭舜生、湯武旦、曹莽外、末丑浄之脚色、天地一大戯場已と。大器の言感すへし。夷狄の主といへとも、人道をよく熟学して、如v是の大言あり。先祖は女直国と云夷にて、朝々尿水にて、面を洗て清しとする国也。よく治めたりといへとも、天地の永久にくらへては、一瞬息の間也。夷狄いやしむへからす、中国と驕りて代々つゝかす。千百年眼と云書に、韓信か乳児ありしを、漢高しらさりしかは、簫何あはれみて、食客に抱かしめ、南蛮の族に養はしむ、蛮人尊崇して、君とかしつき、明にいたりて、其子孫綿々とつゝくこそ。周道漸七十年にして衰ふ。漢は高祖の骨いまた冷ぬに、呂氏の乱あり、八百年、四百年をとなふれとも、干戈百年の息なし。(『茶〓(か)酔言』二七段)
即ち、康煕帝から「天地一大戯場」の聯句が連想され、同時に、その治世も悠久の天地の間に見れば一瞬に過ぎない、という連想が成立しているのである。
- 清の二世康煕帝はさりとは/\英主也。国とりて後、中土の聖人の道をよく教示して、民も明臣の余党もよくしたがへたり。さて其君が聯句に、日月燈、江海油、尭舜生、湯武旦、曹莽外、末外浄脚、天地一大戯場と云れたと也。何もかもよくこゝろへたまへば、先百余年の治世なるべし。されど天地の長きに思へば、たゞ一瞬のほどなるべし。海をさかい、山をへだて、衣服・食味・言語すべて分別也。これをしたがへたりとも、不朽の事とも思はれず。(九九段)
なお、この康煕帝の聨句は、些か内容に異同があるが『諸道聴耳世間猿』巻四之二に既に見えるものである。
この例と同じように、晩年の『膽大小心録』に見られる表現が、同じ頃の他の作品のみならず、秋成の初期作品の中に見られるのも興味深かろう。
- 月日は燈(ともしひ)江海(こうかい)は油(あふら)。風雷(ふうらい)は鼓板(こはん)天地人は一大の戯場(けちやう)。尭舜(けうしゆん)は旦(たん)、湯武(とうぶ)は末(まつ)。操莽(そうもう)は丑浄(ちうじやう)。古今来(ここんらい)許多(そこはく)の脚色(きやくしよく)とは。大清(たいしん)康煕帝(かうきてい)の殿(てん)上の柱(はしら)に書(かい)ておかれたげな。
勿論、九尾の狐という指示対象が同じなのだから同じような表現になるとも言える。が、何れにしても、ほぼ四十年を経て秋成の中で同じような言い回しが残っている、ということが重要である。同様の例だが、
- 天竺でははんぞく太子のつかの神、大唐では殷の姐己、我朝では鳥羽のいんの上はらは玉もの前と化して、世を乱さんとするは、さすがに畜生じや。殺生石も今では腰かけても、蚋にくわれたほどもかゆくなし。(三四段)
- 天竺(ぢく)にては班足(はんぞく)太子の塚(つか)の神。大唐(たいとう)にては幽王(ゆうわう)の后(きさき)。我朝にては鳥羽院(とはのゐん)の上臈(うへわらは)と化(け)したりしも。はては那須野(なすの)の叢(くさむら)にかくれて殺生石(せつしやうせき)となりけるとや。(『諸道聴耳世間猿』巻五之一)
これも、同一の浄瑠璃の文句を引いているのだから同じ表現になるのは当然であるが、しかし、女髪結いから『敵討御未刻』への連想がほぼ四十年に渉って秋成の中で一つのフレーズを形成していたと言えよう。
- 女かみゆひといふもの、敵討おやつの太鼓に、なんぼひろい大坂でも、男のとりあげ婆と、女のかみゆいはござんせぬと見へた事じやが、女の髪ゆいは、翁がわかい時に、お久米と云たが元祖じやあつた‥‥(五九段)
- 扨女かみゆいといふ事。敵討御未刻(おやつ)の太鼓(たいこ)といふ浄るりに。なんぼ広い大坂でも。男のとりあげ婆と女の髪ゆいはないと書しは。四十年そこらのむかし成るに。何事もさかしく移(うつり)ゆくは色里のすがた‥‥(『世間妾形気』巻三之三)
○
さて、『膽大小心録』と似た表現の他の作品・文章は他にも有るが、最後にこれを見ておきたい。『膽大小心録』一〇一段、かつての日の神論争に絡めた部分である。
これも、他の作品・文章に類似する。ゾンガラス云々は既に『呵刈葭』で秋成の説く所であるが、『文反古』下「難波の。竹窓に」にも見える。
- 月も日も、目・鼻・口もあつて、人体にときなしたるは古伝也。ゾンガラスと云ふ千里鏡で見たれば、日は炎々タリ、月は沸々タリ、そんな物ではござらしやらぬ。い中人のふところおやじの説も、又田舎者の聞いては信ずべし。京の者が聞けば、王様の不面目也。やまとだましいと云ふことをとかくにいふよ。どこの国でも其国のたましいが国の臭気也。おのれが像の上に書きしとぞ。
敷島やまと心の道とへば朝日にてらすやまざくら花
とはいかに/\。おのれが像の上には、尊大のおや玉也。そこで、「しき島のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花」とこたへた。「いまからか」と云うて笑ひし也。『馭戎慨言』と云ふ物、かつてだらけに書いた終に、総見院右大臣どの、豊国の大神ともに尾張の国より出でて、天下をはらひきよめたまふ。是、熱田の神、草薙の剣の御徳也とやられた。三河の国には、何ぞその神宝のとゞまりたまひて、今や二百年の治に入る事ぞ。売僧の談義弁、さして雄弁にも聞へず。(一〇一段)草薙剣・熱田神宮の霊験を過大評価する宣長『馭戎慨言』の条は、『安々言』に全く同じ論調で見える。
- かたゐなかの人の。吾うふすなをほめたてゝ。都にまさりたると云ふにおなしをさなことなり。又一人の翁か。月日は吾国に生れたまひて。あまねく世を照らしたまへは。いつちの国も。奴隷と申て来たりつかふへしといふは。私の中にもおろかなる到なり。今存牟我良須と云鏡もてみれは。かたち正しくさたまりたるにあらす。是を太陽太陰の精と云。国のことわりにうなつく人多し。
尾張に熱田神宮があってその霊験によって信長秀吉が天下統一を為したとすれば、三河徳川家二百年の治世には如何なる神宝が寄与しているか、という皮肉が繰りかえされている。
- 又云。総見院右大臣。豊国大神。共ニ尾張国ヨリ出テ。天下ヲ掃浄メタマフ。是熱田大神。草薙剣ノ御徳也トヤ。是ソ妖巫売僧ノ言。識者ハ嗤ヘシ。三河国ニハ如何ナル神宝ノ垂跡アリテ。今也二百年ノ治平ヲ守カセタマフラン。爾(サル)ニテモ草薙剣ノ御徳ノ久シキニ不v耐コトヨ。(『安々言』)
二 記憶と反復
引用が長くなったが、こうした『膽大小心録』との類似は、勿論上述のものに留まらず、ほんの一例に過ぎない。
こうした類似について、先ず確認しておくべき事がある。文章が類似する原因は、先行する文章を右に置いて、それを読みながら書いているためではないだろう。一五四段では、諸々の花の香りについて触れ、「猶あるべけれど、暗記なれば忘れたり。思い出て又いはん」と締めくくっている。これが『膽大小心録』の執筆態度の総てではないにせよ、ほぼその有様を物語っているかと思われる。記憶で書き、忘れた時には何かをレファレンスするのでなく、思い出した時にまた書くのである。
そして、その記憶は、類似というかたちをとって、秋成の文章に顕現していた。即ち、先に引用で示したように、一つの論理は、関連する人物やエピソード、フレーズによって具体化し定型化し、それらは連想のなかで繋がれ記憶されているのである。
また、こうした類似を踏まえた上で『膽大小心録』の特徴を考える場合、他と類似しない部分こそが『膽大小心録』の独自性である、と考えるのは都合が好過ぎよう。勿論、述べ来った類似がその特徴のすべてはないが、しかし、文辞としてかなり近い類似が多くあるという点自体が、まず『膽大小心録』の特徴の一つに挙げられると考えるべきである。
○
さて、ならば『膽大小心録』は、飽きもせず同じ事を繰返し書いたものという事になる。確かに、友人知人の評価や若年時の見聞を中心に『膽大小心録』にしか見えない話も多い。が、そうした新しい話題も含みつつ、何度も語り来った話題を記しているのである。いわば残余の散文。しかし、そうした言い方は、『膽大小心録』の価値をおとしめるようなものではないはずである。むしろ、この定型化した繰返しの中に、秋成の書く行為の意味を、『膽大小心録』は考えさせるのではないか。即ち、論理とモチーフの連想関係によって成立する記憶、そしてその記憶を反復するという秋成の書く行為の意味である。これは、『膽大小心録』の論理の独自性や主題世界の内実を直接に論じる事とはまた別に、有効な視点を開く可能性があると思う。
○
『膽大小心録』を読んで、常に気に掛っていたことがあった。それは、この文章は誰に向けて書かれたものか、という点である。
七段の冒頭に「京師に客たる事十五年来也。此ひとり言して在るが」と見え、一三二段冒頭も「今ははるかなるいにしへの事を思ひいづるは、みやこに年月やどりして、此ひとりごとはすなりけり」と有る。どちらの条も京都の衰えを記したもので、あたたかく迎えられたとは言え、やはり異郷の地である京において、「ひとり言」という表現が見えるのも、或いは論理の連想かもしれないが、それは今は置く。この二つの条に明らかな様に、秋成自身は『膽大小心録』を書く事を「ひとり言」と呼んでいるのであった。だれに聞かせるものでも、読ませるものでもない、書く本人自身に対する営為が、「ひとり言」という言い方にふさわしかろう。誰かを回りに置いて、語らいながら書いているといった類の文章でもないだろう。独りで机に座す老人の姿が一番ふさわしかろう。しかし、果して『膽大小心録』は秋成の内部だけで完結するような性質のものなのだろうか。
○
文章を書く事はおそらく、交感の場として外部を持たずに成立しないだろう。外部とは、誰かそれを読ませたい人であってもよいし、他者化された自己でもよいし、或いはそれを書く事によって自己自身が新たな変容を遂げるような地点であってもよい。こうした標的無しに、書く事は成立しないだろう。というか、書く事とは、書く前と書く後とにずれを含んだものである。
先に引用した一〇一段、宣長批判の条にもう一度戻ってみる。先入観というべきか、この条などは、論争に戦略的に敗北し傷付いた秋成の負け惜しみ、遠吠え、或いは開き直りのように読める。言わば、自慰的な文章である。しかし既に見たように、この条の一部は、『文反古』下「難波の。竹窓に」に有るように、森川竹窓への書簡と同じ内容を含んでいるのである。つまり、当初は具体的に竹窓に向けて理解を訴えていたものであり、即ち一般に言うような独り言では決してなかった。
また、先に引用した『遠駝延五登』や『安々言』は、いずれも写本であるが、そこには明確な(少なくとも『膽大小心録』よりは)編集意識があった。『遠駝延五登』一の末尾は「さるにても、世はまことによる方なき、しられぬものよと、思ふ心のわつらふまゝに、此長物語はすなりけり」で結ばれる。『遠駝延五登』が長物語だとすれば、『膽大小心録』は短物語であろうが、長物語という持続性の中には、まとめあげつくりあげるという意識が伺える。自己の論述をまとめあげ、身辺の者から批評を乞うという意図があったろう。その点、『膽大小心録』に先行する類似の文章は、外部を別の誰か何人として想定することはさほど難しくない。
では、『膽大小心録』はどうか。そもそも秋成にしても、独り言と言いながらも、『膽大小心録』が誰の目にも触れぬように出来るとは思っていなかったに違いない。先の「難波の。竹窓に」の冒頭では、秋成の書いた消息や下書きを竹窓があながちに求めていて、秋成はそうした行為に苦言を呈しつつ、その心情に理解を示すという条が有る。そもそもこの竹窓宛書簡は、よく知られた通り、草稿類を古井に投棄したことを知らせる手紙である。なぜわざわざ知らせるのか。『膽大小心録』も、彼ら信奉者の監視の目から自由ではなかったろうし、秋成自身よく心得ていたのである。
しかし一方で、自身が『膽大小心録』を独り言と規定している点は、なおも重要である。ただ、それは他者の目にさらされる独り言である。だが秋成にとって、それがいかに人目に触れる運命にあるものであっても、『膽大小心録』は独り言として書かれなければならなかったのではないか。それは、純粋なる内省として書かれたものではないかつての論題・主題を、今一度「ひとり言」として内省のレベルに設置し直し書くという事である。
内省としての独り言は、どのように『膽大小心録』に表れているか。例えば、それが他者を遮断するディスクールだという点である。晩年の秋成を京都文人サークルの隠然たる領袖として迎えた友人達、生活の面倒も含めかいがいしく仕えた弟子格の信奉者達、若き頃ともに遊び学んだ仲間達、彼らを一様に、冷たく突放すような言い方では決してないが、しかし冷静な態度で、茶化し、揚げ足を取り、憐れみ、小馬鹿にし、非難し、挙げ句に「友のうるわしきなし」(一〇八段)、「文雅に友無し」(一三九段)と言う。これは実生活者として人嫌いの秋成自身の友人観であるかも知れないが、それ以上に、『膽大小心録』における言説の問題として捉えるべきではないか。内省に沈む時、美辞麗句を不要とし、自己が孤独である事を発見するのは、普遍的な様相であろう。言わば、読ませるべき他者・外部を排除した内省というディスクールなのである。
その意味で、『膽大小心録』の問題は、秋成が何を書きたかったかと言った主題論やその論理でなく、内省へ赴いてゆくというディスクールそのものであろう。勿論、主題や論理の論究を否定するものではないが、一方で、晩年の秋成が『膽大小心録』を綴り続けたという事自体へのアプローチ無しには、『膽大小心録』を理解する事は出来ないはずである。
森山重雄氏は言う(「『膽大小心録』の世界」『幻妖の文学 上田秋成』)。
秋成晩年の小心録の世界とは、自己を「山の大将我一人」または「目ひとつの神」として神格化し超越させてゆく意識と、余計者・余り者・死におくれたみじめな老人として、自己を劣等化してゆく意識の二重性によって成りたっている。(中略)秋成の〈書く〉意識とは、この純粋自己と異化された自己との間を往来することである。
森山氏の論点は、『膽大小心録』において見出した二律背反的な主題を分別して論じて『膽大小心録』の主題論をなすものではなかった。「純粋自己」と「異化された自己」との二つの主題は今や流転的往還運動として統一的に捉えられ、そこに開けた地点は主題論を超えて〈書く〉という行為そのものへの論究であっただろう。高田衛氏は言う(『上田秋成年譜考説』三四二頁)。
この頃の秋成は、「七十五才の今日にいたりては、友はすつきりとなし」(書きおきの事)と自称するように、世間からはすっかり忘れさられ、死者同然であった。(中略)死者には、社会的節度も、時間も無い。秋成が、口語体の文章で、すなわち文飾をすて、すべての他人を罵しり、すなわち社会的節度を抛った書様、すなわち「何事もあからさまにこそあらまく」(秋雲什)という形式は、その意味で、「回想」を過去形から、現在形へひきづり出したわけである。それはロマネスクな世界ではなかったが、秋成にとっては、老年において達した(死を超える意識において)ひとつの衝動的な創作の場であった。ある意味では、『胆大小心録』は、「死者の書」であって、その「死者の書」の形式をつかみとったことによって、秋成の最晩年の、生の燃焼があったのである。
高田氏が見出した『膽大小心録』の魅力は、ロマネスクな世界、言わば文学的な主題ではなく、詩や歌や節度や文飾の放擲であり、文体であり形式であり、そしてそれは回想でありつつも、死者という自己規定によってなされた意外なほどに明るく力強い現在であり、そこから成立する秋成の新しい創作の場であった。死は、現在と未来を否定するものでなく、新たに掴み取られた生の燃焼、再生であった。
『膽大小心録』という場において、秋成の書く行為そのものを究明しようとする姿勢は、この地平を指標にする事が許されるのではないだろうか。
○
書くという行為を秋成に関して考える場合、反復される連想を何度も何度も書き綴り続けてゆくという在り様は、他の作品でも指摘しうる特徴かも知れない。しかし、『膽大小心録』は特に顕著であろうと思う。それは、『膽大小心録』がおよそ秋成にとって最後の日常的な書く事を保証した場だったからだと思われる。
同じく短物語である『茶〓(か)酔言』は、煎茶の話から大きく逸脱し思いのままに書いてはいたが、結局一定の完成を見た。『膽大小心録』はおそらく完成する必要さえない。完結性も、そして中心的な主題も論理も必要とせず、ただ書き続けるという事。書く事は常に外部を必要としているが、それに対して、内省という営みへと位相を移すものとしての営為である。そもそも、内省として書き綴るという姿勢は、今日批判される近代主義などでは決してなく、書く事それ自体が孕む必然的な傾斜であろう。外に開かれている文章の意識と、外を遮断し内省としてのみ成立しようとする文章の意識。おそらく、およそ書く事は外部を必要とするだろうし、外部の意識無くしては内省も成立すまい。が、この二様において『膽大小心録』は、自律する内省への挑戦として書き続けられたものだとは言えないであろうか。
〔付記〕『膽大小心録』の引用は岩波古典文学大系『上田秋成集』から、他はすべて中央公論社『上田秋成全集』による。
※ついですから、本エッセイを所収する『秋成とその時代』のブックレビューを載せておきます。東京都立大学国語国文学会編『都大論究』32号に書いたものです。短いですが、これは『都大論究』の仕様です。
高田衛編『共同研究 秋成とその時代』論集近世文学5
内容は、第一部「原郷・大坂・十八世紀」、第二部「漂泊・京都・十九世紀」、第三部「秋成の内なる秋成」の三部構成。若手研究者から斯界の大家まで含めた専門家三十人による力作三十五論文を載せる。
第一・二部では、秋成の伝記、交友、同時代の動静等に関して網羅的な章立てが行われ、木村蒹葭堂・中井履軒・都賀庭鐘・加藤宇万伎・谷川兄弟・小沢芦庵・伴蒿蹊・皆川淇園・妙法院・藤貞幹・村瀬栲亭・昇道法師、等々関連する人物およびその周辺事情についての新知見にあふれ、秋成の生きた時代をそれぞれの場面のディティールの集合によって再構築する。 第三部は、作品論およびその精神世界に就いての論究。命禄・繰り返し・反復・一回性・内省・自己言及・「私」からの脱却・情欲の投棄・反主題、等各論文のキーワードがそれぞれ個別でありつつ本書の中で互いにぶつかり合うことで新たな秋成像の方向性を示しているのは、一・二部と相似の関係に有る。本書は恐らく今世紀最後の秋成百科であり、今後の新展開に向けての画期点である。 なお、本学会関係者では編者高田氏ほか稲田篤信・佐藤深雪・風間誠史・鈴木よね子・米谷匡代・評者らが執筆している。
(c)高橋明彦
1997年2月3日 HTMLによる公開
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