秋成の連想と反復

   ----『膽大小心録』小考

高橋明彦  

    一 論理と連想
    二 記憶と反復

 


 古典文学大系『上田秋成集』に収められた『膽大小心録』は、中村幸彦氏の注釈が備わり、非常に読み易くなっている。その詳細な注釈の内には、秋成の他の作品・文章との類似の指摘が加えられ、さらに理解を深めるに役立つ。今、こうした他との類似の指摘を拾い読みして見ると、いろいろと気付く所がある。それについて、若干述べてみたい。

 


一 論理と連想

 類似点を一番数多く指摘されているのが、『遠駝延五登』である。以下しばらくそれを見る。

 『膽大小心録』四段は、学問における「私」を話題とした条だが、これが『遠駝延五登』の冒頭部分にほぼ当嵌まる。

 『膽大小心録』は、『遠駝延五登』の要約といってよい内容になっている事が判る。「しれぬ事は其儘に」という思想は、晩年の秋成には随所に見られる発想であるが、続けて五段には雨森芳州『橘〓(そう)茶話』から得たと思われる考えが述べられる。

これが雨森芳州の言葉である事は、『遠駝延五登』異文によっても明らかである。 両者の関連は、『文反古』下「難波の。竹窓に」を間におくと、より明確である。

 いまここで確認しておきたい事は次の通りである。即ち、「しれぬ事は其儘に」という秋成晩年の思想は、陶淵明や雨森芳州の言葉が喚起したものであるのみならず、この思想を述べる時には必ずこの人々がモチーフとしてそこに付随するという事である。特に、陶淵明の緒絶え琴の故事が『遠駝延五登』という書名になっていることからも判るように、思想とモチーフ・エピソードとが不可分なものとして、秋成の中に連想されているのである。

     

 さて、知らぬ事を知らぬままにする事は、どういう意味があるか。それは、現在の名声を大事に思うのでなく、後世から誹られぬようにせよ、という事であった。四段では続けて、

韓愈の言うところとする「前の誉れ、後の誹り」という言い回しは、やはり秋成の好む所で、そして必ず、毀誉褒貶はみな主観的な判断に過ぎぬという結論に至る。 加えて言えば、この韓愈の詩からの連想として成立する言い回しは、遇不遇という観点へと関連付けられて行くようである。『藤簍冊子』巻五「故郷」では、この韓愈の詩に触れて、 緒絶え琴のエピソードによって形成される不可知論から、遇不遇の命禄論への論理展開も、秋成の中で究めて自然な傾斜として成立しているのである。

     

 他の例に移る。『遠駝延五登』には、蘇東坡と仏印のエピソードが見える。いわゆる才智論である。

これは、一〇六段に同じ様に見える。 『膽大小心録』のほうが、いささか記述が簡略であるが、ほぼ同文の関係にあるという事ができよう。

 さて、この才智論も、やはり必ず決った展開を持つ。具体的に、歴史上の人物をこの観点から俎上にあげるのである。代表的な人物が、例えば大友皇子である。

右の文での大友皇子観は、伊賀の采女の原である故に人望が無い、父帝の恩寵のお蔭で逆に反感を買った、そして、才能に誇るが故に兄弟・老臣を見下して居た、といった点に要約される。『遠駝延五登』にも、 この最後に見える劉徳高の条も、大友皇子論において欠かせない要素の一つである。そして、大津皇子や源実朝なども、同列にこの才智論の代表的人物として語られる。 『遠駝延五登』二の冒頭でも、再び大友皇子・大津皇子・源実朝が、自己の才に誇る余り佞臣の甘言によって道を誤った例として並べられる。今、源実朝の記述を中心に引用すると、 この後の論調は、必ず、北条義時が公暁をして殺害せしめたこと、実朝の歌の才能についての論評、そして、定家がその才能を妬んだという展開になる。 北条義時の条、藤原定家の条について、『遠駝延五登』のこの部分は『膽大小心録』と順序が逆だが、『茶〓(か)酔言』はより『膽大小心録』に近い。『茶〓(か)酔言』でも才智論として、大友・大津・実朝が並ぶが、この一連を含めて見れば、 ほぼ、才智論の定型が出来上がっていると言うべきであろう。

     

 今あげた『茶〓(か)酔言』をもう少し見る。『膽大小心録』六段は西行の塵外塵中についての言である。

「七日ははれし」云々は、『膽大小心録』に次のようにも見える。 『茶〓(か)酔言』においてもこの論旨は、先の五〇段を挟んで、総て盛込まれている。

     

 『茶〓(か)酔言』から、もう少しあげる。康煕帝を述べた条で、歴史観・時間論である。

『膽大小心録』でも、この条は同じ論旨で見る事が出来る。 即ち、康煕帝から「天地一大戯場」の聯句が連想され、同時に、その治世も悠久の天地の間に見れば一瞬に過ぎない、という連想が成立しているのである。

 なお、この康煕帝の聨句は、些か内容に異同があるが『諸道聴耳世間猿』巻四之二に既に見えるものである。

この例と同じように、晩年の『膽大小心録』に見られる表現が、同じ頃の他の作品のみならず、秋成の初期作品の中に見られるのも興味深かろう。 勿論、九尾の狐という指示対象が同じなのだから同じような表現になるとも言える。が、何れにしても、ほぼ四十年を経て秋成の中で同じような言い回しが残っている、ということが重要である。同様の例だが、 これも、同一の浄瑠璃の文句を引いているのだから同じ表現になるのは当然であるが、しかし、女髪結いから『敵討御未刻』への連想がほぼ四十年に渉って秋成の中で一つのフレーズを形成していたと言えよう。

     

 さて、『膽大小心録』と似た表現の他の作品・文章は他にも有るが、最後にこれを見ておきたい。『膽大小心録』一〇一段、かつての日の神論争に絡めた部分である。

これも、他の作品・文章に類似する。ゾンガラス云々は既に『呵刈葭』で秋成の説く所であるが、『文反古』下「難波の。竹窓に」にも見える。 草薙剣・熱田神宮の霊験を過大評価する宣長『馭戎慨言』の条は、『安々言』に全く同じ論調で見える。 尾張に熱田神宮があってその霊験によって信長秀吉が天下統一を為したとすれば、三河徳川家二百年の治世には如何なる神宝が寄与しているか、という皮肉が繰りかえされている。

 


二 記憶と反復

 引用が長くなったが、こうした『膽大小心録』との類似は、勿論上述のものに留まらず、ほんの一例に過ぎない。

 こうした類似について、先ず確認しておくべき事がある。文章が類似する原因は、先行する文章を右に置いて、それを読みながら書いているためではないだろう。一五四段では、諸々の花の香りについて触れ、「猶あるべけれど、暗記なれば忘れたり。思い出て又いはん」と締めくくっている。これが『膽大小心録』の執筆態度の総てではないにせよ、ほぼその有様を物語っているかと思われる。記憶で書き、忘れた時には何かをレファレンスするのでなく、思い出した時にまた書くのである。

 そして、その記憶は、類似というかたちをとって、秋成の文章に顕現していた。即ち、先に引用で示したように、一つの論理は、関連する人物やエピソード、フレーズによって具体化し定型化し、それらは連想のなかで繋がれ記憶されているのである。

 また、こうした類似を踏まえた上で『膽大小心録』の特徴を考える場合、他と類似しない部分こそが『膽大小心録』の独自性である、と考えるのは都合が好過ぎよう。勿論、述べ来った類似がその特徴のすべてはないが、しかし、文辞としてかなり近い類似が多くあるという点自体が、まず『膽大小心録』の特徴の一つに挙げられると考えるべきである。

     

 さて、ならば『膽大小心録』は、飽きもせず同じ事を繰返し書いたものという事になる。確かに、友人知人の評価や若年時の見聞を中心に『膽大小心録』にしか見えない話も多い。が、そうした新しい話題も含みつつ、何度も語り来った話題を記しているのである。いわば残余の散文。しかし、そうした言い方は、『膽大小心録』の価値をおとしめるようなものではないはずである。むしろ、この定型化した繰返しの中に、秋成の書く行為の意味を、『膽大小心録』は考えさせるのではないか。即ち、論理とモチーフの連想関係によって成立する記憶、そしてその記憶を反復するという秋成の書く行為の意味である。これは、『膽大小心録』の論理の独自性や主題世界の内実を直接に論じる事とはまた別に、有効な視点を開く可能性があると思う。

     

 『膽大小心録』を読んで、常に気に掛っていたことがあった。それは、この文章は誰に向けて書かれたものか、という点である。

 七段の冒頭に「京師に客たる事十五年来也。此ひとり言して在るが」と見え、一三二段冒頭も「今ははるかなるいにしへの事を思ひいづるは、みやこに年月やどりして、此ひとりごとはすなりけり」と有る。どちらの条も京都の衰えを記したもので、あたたかく迎えられたとは言え、やはり異郷の地である京において、「ひとり言」という表現が見えるのも、或いは論理の連想かもしれないが、それは今は置く。この二つの条に明らかな様に、秋成自身は『膽大小心録』を書く事を「ひとり言」と呼んでいるのであった。だれに聞かせるものでも、読ませるものでもない、書く本人自身に対する営為が、「ひとり言」という言い方にふさわしかろう。誰かを回りに置いて、語らいながら書いているといった類の文章でもないだろう。独りで机に座す老人の姿が一番ふさわしかろう。しかし、果して『膽大小心録』は秋成の内部だけで完結するような性質のものなのだろうか。

     

 文章を書く事はおそらく、交感の場として外部を持たずに成立しないだろう。外部とは、誰かそれを読ませたい人であってもよいし、他者化された自己でもよいし、或いはそれを書く事によって自己自身が新たな変容を遂げるような地点であってもよい。こうした標的無しに、書く事は成立しないだろう。というか、書く事とは、書く前と書く後とにずれを含んだものである。

 先に引用した一〇一段、宣長批判の条にもう一度戻ってみる。先入観というべきか、この条などは、論争に戦略的に敗北し傷付いた秋成の負け惜しみ、遠吠え、或いは開き直りのように読める。言わば、自慰的な文章である。しかし既に見たように、この条の一部は、『文反古』下「難波の。竹窓に」に有るように、森川竹窓への書簡と同じ内容を含んでいるのである。つまり、当初は具体的に竹窓に向けて理解を訴えていたものであり、即ち一般に言うような独り言では決してなかった。

 また、先に引用した『遠駝延五登』や『安々言』は、いずれも写本であるが、そこには明確な(少なくとも『膽大小心録』よりは)編集意識があった。『遠駝延五登』一の末尾は「さるにても、世はまことによる方なき、しられぬものよと、思ふ心のわつらふまゝに、此長物語はすなりけり」で結ばれる。『遠駝延五登』が長物語だとすれば、『膽大小心録』は短物語であろうが、長物語という持続性の中には、まとめあげつくりあげるという意識が伺える。自己の論述をまとめあげ、身辺の者から批評を乞うという意図があったろう。その点、『膽大小心録』に先行する類似の文章は、外部を別の誰か何人として想定することはさほど難しくない。

 では、『膽大小心録』はどうか。そもそも秋成にしても、独り言と言いながらも、『膽大小心録』が誰の目にも触れぬように出来るとは思っていなかったに違いない。先の「難波の。竹窓に」の冒頭では、秋成の書いた消息や下書きを竹窓があながちに求めていて、秋成はそうした行為に苦言を呈しつつ、その心情に理解を示すという条が有る。そもそもこの竹窓宛書簡は、よく知られた通り、草稿類を古井に投棄したことを知らせる手紙である。なぜわざわざ知らせるのか。『膽大小心録』も、彼ら信奉者の監視の目から自由ではなかったろうし、秋成自身よく心得ていたのである。

 しかし一方で、自身が『膽大小心録』を独り言と規定している点は、なおも重要である。ただ、それは他者の目にさらされる独り言である。だが秋成にとって、それがいかに人目に触れる運命にあるものであっても、『膽大小心録』は独り言として書かれなければならなかったのではないか。それは、純粋なる内省として書かれたものではないかつての論題・主題を、今一度「ひとり言」として内省のレベルに設置し直し書くという事である。

 内省としての独り言は、どのように『膽大小心録』に表れているか。例えば、それが他者を遮断するディスクールだという点である。晩年の秋成を京都文人サークルの隠然たる領袖として迎えた友人達、生活の面倒も含めかいがいしく仕えた弟子格の信奉者達、若き頃ともに遊び学んだ仲間達、彼らを一様に、冷たく突放すような言い方では決してないが、しかし冷静な態度で、茶化し、揚げ足を取り、憐れみ、小馬鹿にし、非難し、挙げ句に「友のうるわしきなし」(一〇八段)、「文雅に友無し」(一三九段)と言う。これは実生活者として人嫌いの秋成自身の友人観であるかも知れないが、それ以上に、『膽大小心録』における言説の問題として捉えるべきではないか。内省に沈む時、美辞麗句を不要とし、自己が孤独である事を発見するのは、普遍的な様相であろう。言わば、読ませるべき他者・外部を排除した内省というディスクールなのである。

 その意味で、『膽大小心録』の問題は、秋成が何を書きたかったかと言った主題論やその論理でなく、内省へ赴いてゆくというディスクールそのものであろう。勿論、主題や論理の論究を否定するものではないが、一方で、晩年の秋成が『膽大小心録』を綴り続けたという事自体へのアプローチ無しには、『膽大小心録』を理解する事は出来ないはずである。

 森山重雄氏は言う(「『膽大小心録』の世界」『幻妖の文学 上田秋成』)

    秋成晩年の小心録の世界とは、自己を「山の大将我一人」または「目ひとつの神」として神格化し超越させてゆく意識と、余計者・余り者・死におくれたみじめな老人として、自己を劣等化してゆく意識の二重性によって成りたっている。(中略)秋成の〈書く〉意識とは、この純粋自己と異化された自己との間を往来することである。
森山氏の論点は、『膽大小心録』において見出した二律背反的な主題を分別して論じて『膽大小心録』の主題論をなすものではなかった。「純粋自己」と「異化された自己」との二つの主題は今や流転的往還運動として統一的に捉えられ、そこに開けた地点は主題論を超えて〈書く〉という行為そのものへの論究であっただろう。

 高田衛氏は言う(『上田秋成年譜考説』三四二頁)

    この頃の秋成は、「七十五才の今日にいたりては、友はすつきりとなし」(書きおきの事)と自称するように、世間からはすっかり忘れさられ、死者同然であった。(中略)死者には、社会的節度も、時間も無い。秋成が、口語体の文章で、すなわち文飾をすて、すべての他人を罵しり、すなわち社会的節度を抛った書様、すなわち「何事もあからさまにこそあらまく」(秋雲什)という形式は、その意味で、「回想」を過去形から、現在形へひきづり出したわけである。それはロマネスクな世界ではなかったが、秋成にとっては、老年において達した(死を超える意識において)ひとつの衝動的な創作の場であった。ある意味では、『胆大小心録』は、「死者の書」であって、その「死者の書」の形式をつかみとったことによって、秋成の最晩年の、生の燃焼があったのである。

 高田氏が見出した『膽大小心録』の魅力は、ロマネスクな世界、言わば文学的な主題ではなく、詩や歌や節度や文飾の放擲であり、文体であり形式であり、そしてそれは回想でありつつも、死者という自己規定によってなされた意外なほどに明るく力強い現在であり、そこから成立する秋成の新しい創作の場であった。死は、現在と未来を否定するものでなく、新たに掴み取られた生の燃焼、再生であった。

 『膽大小心録』という場において、秋成の書く行為そのものを究明しようとする姿勢は、この地平を指標にする事が許されるのではないだろうか。

     

 書くという行為を秋成に関して考える場合、反復される連想を何度も何度も書き綴り続けてゆくという在り様は、他の作品でも指摘しうる特徴かも知れない。しかし、『膽大小心録』は特に顕著であろうと思う。それは、『膽大小心録』がおよそ秋成にとって最後の日常的な書く事を保証した場だったからだと思われる。

 同じく短物語である『茶〓(か)酔言』は、煎茶の話から大きく逸脱し思いのままに書いてはいたが、結局一定の完成を見た。『膽大小心録』はおそらく完成する必要さえない。完結性も、そして中心的な主題も論理も必要とせず、ただ書き続けるという事。書く事は常に外部を必要としているが、それに対して、内省という営みへと位相を移すものとしての営為である。そもそも、内省として書き綴るという姿勢は、今日批判される近代主義などでは決してなく、書く事それ自体が孕む必然的な傾斜であろう。外に開かれている文章の意識と、外を遮断し内省としてのみ成立しようとする文章の意識。おそらく、およそ書く事は外部を必要とするだろうし、外部の意識無くしては内省も成立すまい。が、この二様において『膽大小心録』は、自律する内省への挑戦として書き続けられたものだとは言えないであろうか。

 

〔付記〕『膽大小心録』の引用は岩波古典文学大系『上田秋成集』から、他はすべて中央公論社『上田秋成全集』による。


※ついですから、本エッセイを所収する『秋成とその時代』のブックレビューを載せておきます。東京都立大学国語国文学会編『都大論究』32号に書いたものです。短いですが、これは『都大論究』の仕様です。

高田衛編『共同研究 秋成とその時代』論集近世文学5(勉誠社・1994年11月刊・15450円)

 内容は、第一部「原郷・大坂・十八世紀」、第二部「漂泊・京都・十九世紀」、第三部「秋成の内なる秋成」の三部構成。若手研究者から斯界の大家まで含めた専門家三十人による力作三十五論文を載せる。

 第一・二部では、秋成の伝記、交友、同時代の動静等に関して網羅的な章立てが行われ、木村蒹葭堂・中井履軒・都賀庭鐘・加藤宇万伎・谷川兄弟・小沢芦庵・伴蒿蹊・皆川淇園・妙法院・藤貞幹・村瀬栲亭・昇道法師、等々関連する人物およびその周辺事情についての新知見にあふれ、秋成の生きた時代をそれぞれの場面のディティールの集合によって再構築する。

 第三部は、作品論およびその精神世界に就いての論究。命禄・繰り返し・反復・一回性・内省・自己言及・「私」からの脱却・情欲の投棄・反主題、等各論文のキーワードがそれぞれ個別でありつつ本書の中で互いにぶつかり合うことで新たな秋成像の方向性を示しているのは、一・二部と相似の関係に有る。本書は恐らく今世紀最後の秋成百科であり、今後の新展開に向けての画期点である。

なお、本学会関係者では編者高田氏ほか稲田篤信・佐藤深雪・風間誠史・鈴木よね子・米谷匡代・評者らが執筆している。

 



 

初出 : 勉誠社、高田衛編『上田秋成とその時代』所収(1994年12月)

(c)高橋明彦 1997年2月3日 HTMLによる公開
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