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【資料紹介】高屋肖哲資料④ 芳崖と肖哲②~芳崖作品の模写(更新日2017/11/15)

2017年11月15日

【資料紹介】高屋肖哲資料④ 芳崖と肖哲②~芳崖作品の模写(更新日2017/11/15)
【資料紹介】高屋肖哲資料④ 芳崖と肖哲②~芳崖作品の模写

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近世における絵画学習の基本は、手本を写しとって画業の研鑽を積む粉本学習でした。この方法は、「家」や「派」の画風を受け継ぎ守るといった利点がありましたが、時代が下るにつれて画題のマンネリ化や形骸化などが見られ、現代においてはあまり高い評価がなされない場合もあります。
肖哲が学んだ東京美術学校でも写生や新案の他に、臨画や模写が授業として取り入れられていました。現代では評価が低く見られがちですが、「手本を写す」ということは、近世近代において大切な絵画学習法のひとつであったと言えるでしょう。

肖哲は模写による学習を大事にしました。それは、身近な学習法であったこと加え、東京美術学校在学時からたびたび模写事業に参加していたことも関係しているでしょう。卒業後も、帝室博物館や東京美術学校に収められている作品の模写を行っています。一流の名画にふれることのできる環境であったのは、肖哲にとって僥倖であったことでしょう。また、帝室博物館の仏像絵画模写を担当していた時もありました。こうした経験が、後年のモールスによる模写依頼につながっていきます。

高屋肖哲資料のなかには絵巻や絵画など多くの模写作品が含まれています。『雑事抄録』にも以下のような記述があり、肖哲の模写行為に対する姿勢がうかがえます。

『雑事抄録』34.「古画の摸寫及び臨模」

「摸寫とは古画の筆法色彩紋様を其侭に寫し採るを云へり 第一に揚寫し 第二につゝき寫しあり 第一の寫すべき紙面を古画の面上に覆ふて伏せ古画の筆法及び色彩紋様に至る迄で一線を一度々々に上の紙面を揚げてハ寫し幾度も揚げ々々して古画の筆法の變らざる運筆に寫し取るものとす 然れ共是は中々筆の行き届かざる所ありて完全には寫し得ず後より補筆する等の策に出でて真に画きたる様にハ写されず 矢張り絵に鈍りありて摸寫たることを免れざるものなり 然れ共 此摸寫法は古傅来の法なり 第二の摸寫法は古へよりあれど 必用に迫られぬ今は写真を旨として墨画に剥落又は蟲の畜めたる所あるを 写真器にて撮りたる如くに筆線等画面を作りつゝ寫し採るを 名忖てつヽき寫しと俗に云ふ 揚げ寫しハ云ふ迄もなく揚げ々々して寫すものなり 愉へは古画の丈け巾ともに三尺づゝある古画面は堅て壱寸づゝを毎日寫すとすれば三十日を要すべし 是ハ極めて緻密に然も古画其儘に寫さるべくして寫真奇怪を以て人顔を寫す 今日にありては確かなる古画(着色/画墨色画)の摸寫法と云ふべし 然れども筆意の死したるとて古来より之を採用せざりし
臨寫とは古画を脇に置きて 其古画の筆法を手前の紙面上に焼筆(木炭)にて等寸 又は縮圖に當りを付けて 自在に古画を轉寫し得るを云ふ 之は古画面の大体の輪廓の豫線(木炭描)及び形様の範囲の豫線(木炭描)を寫し撮りて漸くに真筆(古画)の線形に近づきし豫線(木炭描)を猶ほも充分に寫し採りて 後ち本繪画の真の筆法を見取り画きに寫す法にして 之も又寫し採るにハ視力の練習を要すべし」

『雑事抄録』34.「摸寫臨寫必用」

「摸寫臨寫は筆法筆意着色隈取濃淡等の古人の法を完全に自由に習得ならしむる法にして自己の俗様を剥脱するにあり 明治美術創立者間には古画の摸本を作製して欧州に送出して日本美術を知らしむるに務めんとせり 且つは上代の繪画を後世に傳へんとするには摸寫の必用ありとす 昔時より此摸寫法を等管に付せざる時代もありしが多くハ軽卒なりしに起囚すべし 比較的佛像画には信仰上必用もありて古代奈良朝より摸本にて傳ハる佛像画多し 或は摸本なるを真本にて尊ばれるつゝあるを 屡々見受くる所なり」

肖哲にとって模写は、画業の研鑽であり仕事でもありました。しかし、模写を極めることを画業の到達点(ゴール)にはせず、あくまでも模写から学びを得、自身の制作に反映させていきました。
芳崖作品の模写は、敬愛する師の作品を扱うということで肖哲のなかでも特別な意味をもっていたでしょう。本来はもっと数があったかもしれませんが、本資料内ではこの6点のみが伝わります。

(美術工芸研究所 非常勤学芸員 幸田美聡)

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芳崖晩年の弟子のなかでも、肖哲の知名度は一段と低いと言えます。『東京芸術大学百年史』(東京芸術大学百年史編集委員会編/1987年)に項が無く、あまつさえ「高尾肖哲」と誤字表記されているところからもその処遇がうかがえます。
肖哲の知名度が低いのは、秋水や天城と違って中央画壇に姿を現さなかった(作品を出品しなかった)ことが大きいでしょう。芳崖亡き後、天心の薦めで東京美術学校に入学したものの、肖哲は天心の運営に同調せず袂を分かちます。懇意であった、狩野友信や今泉雄作への冷遇、また、自身への不当な扱いへの思いが『雑事抄録』には書き連ねられています※。それが、単なる私怨なのか、はたまた本当に不当な処遇であったのかは定かではありませんが、肖哲が東京美術学校や日本美術院と交流を持たず、在野の画家としての道を歩ませる契機となったことは確かでしょう。
歴史は常に勝者の歴史です。ここに高屋肖哲資料が残ったのも何かの縁でしょう。今こそ、日本美術院に参加せず、歴史の隅に追いやられた画家たちにも、スポットを当てていく時期なのではないでしょうか。

※『雑事抄録』33.「再三考尚東京美術学校創立者狂態ノ記」

「日本の寺社に金銭を献納せしビゲロー氏帰國せんとする時は 送別曾を植半にて開きしがフェノロサ氏が帰國する時ハ送別會を開かず 独りで帰國した 尤其前に虐待して学校(美術)を放逐して高等師範に語学の教師をなさしめて知らぬ顔をして岡倉校長は意に介せず 先さには芳翁まても最早不必用視して居り(芳崖翁は人相上より早くより知り貫ひた)岡倉が学校がなりて尚宣傳的に変った事を世間に見せる考へにて 袍腋を着て馬に乗りて文部省其他何處にも出人したもので 途中人の目につくのを喜びつヽ歩き居りしが 半狂者たるは免れぬことなり 何んでも日本美術を鼓吹せねばならぬと言ふのは結構であツたが明治卅年ヨリ卅一年に懸けて建てた学校を瓦解せしめたのも 斯様な狂態の結果なりき
其前狩野友信先生を非常に虐待して意とせず 遂ひに退職の止を得ざるに至らしめし 次に肖皙にしては卒業以前に下村観山に地位を贈らしめて意とせず 創立者の一入今泉雄作先生も学校より放逐して京都の美術学校長になさしめ 東京にては唯の一人岡倉覚三あるのみと云ふ 何と以て世に其例少なからざるも其罪爰に至て遂ひに狂気して学校瓦解(明治卅一年三月辞表提出)を招きて岡倉自身の處置すら當惑するに至れり 同し創立者の人々を虐待して放逐して迄も栄位を己れ一人に得んとする美術界なれば 夫々の處置も緩るくして此侭に済みしも 昭和の現今の時局下に際し 日本美術の為めに全力を注ぎて遂ひに命を捧げし芳崖先生の労を思へは 感懐の念禁ずる欲はず されど戦争と美術とは雲泥の違ひあるも芳崖先生の意気込は戦争用に供するための美術なりと云はん 弟子肖哲爰に記して以て師匠の意を傳ふるところなり    征清十五ヶ月に至る昭和十三年十月一日肖哲記」

【高屋肖哲について】
高屋肖哲(1866-1945)は慶應2年(1866)、岐阜県大垣町の士族高屋海蔵の次男として生まれる。19歳で上京し、狩野芳崖に師事。芳崖の死後は、まわりの勧めもあって東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学。その一期生となる。卒業後は翌27年(1894)から30年(1897)まで石川県工業学校に勤めたが、退職。その後、東京美術学校図案科助教となるなどの経歴がわかっている。
肖哲の生涯は長らく不明であったが、近年の調査により図案科退職後は関西で仏教美術研究に没頭していたこと、高野山で寄宿生活をおくっていたこと、晩年は石器の研究に熱中していたこと、九州や淡路を放浪していたことなどがわかっている。

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【参考】
「高屋肖哲の新出一括資料調査報告書 『雑事抄録』翻刻・画稿類一覧および研究」金沢美術工芸大学美術工芸研究所 2000年
藤井由紀子「近代化のはざまに生きた画家高屋肖哲―時代から零れ落ちた一人の画家の足跡」「芸術学 学報」第7号 金沢芸術学研究会 2000年

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最終更新日 2017.11.15

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