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【資料紹介】高屋肖哲資料⑥ 肖哲の観音菩薩像②-「千児観音」の系譜-(更新日2018/01/26)

2018年1月26日

【資料紹介】高屋肖哲資料⑥ 肖哲の観音菩薩像②-「千児観音」の系譜-(更新日2018/01/26)
【資料紹介】高屋肖哲資料⑥ 肖哲の観音菩薩像②-「千児観音」の系譜-

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◆肖哲稀代の名作「観音菩薩図(千児観音)」
肖哲資料のなかでも、観音-103「観音菩薩図(千児観音)」※1は名品にかぞえられる作品のひとつでしょう。残念ながら、本作は完成した作品ではありませんが、観音の静謐な表情や美しい線表現など、下絵とは思えない高い作品性を呈しています。また、観音の周りを子どもが埋め尽くすという図像は汎用性のある図像ではなく、そのため肖哲の新案ではないかと言われます。近年、本作は学内外で公開される機会を得ましたが、多方向から高い評価を得ています。

※1この観音-103「観音菩薩図(千児観音)」ですが、「高屋肖哲の新出一括資料調査報告書 『雑事抄録』翻刻・画稿類一覧および研究」での名称は「観音菩薩図」となっています。「千児観音」という名称は『雑事抄録』32巻の「千兒観音匣題の寫」から、調査の一員であった藤井由紀子氏が観音-105を同書内で「千児観音下絵」と紹介したところ、観音-105と同じ様相を示す観音-103も「千児観音」と呼ぶようになったと思われます。従って、本文内では先の調査報告書の名称を引きつつ、現在認識されている名称を並行して観音-103を「観音菩薩図(千児観音)」と記します。

『雑事抄録』32巻「千兒観音匣題の寫」には大村西崖※1が肖哲の「千児観音」(完成品)に寄せた箱書きの写しが記されています。内容は、観音の名作として中国の作例や狩野芳崖の「悲母観音」をあげ、いかにこの肖哲の「千児観音」が素晴らしいかが述べられています。『雑事抄録』32巻は昭和6年の冊子ですが、本文末に「大正乙丑」とあり、箱書きの文章は大正14年に書かれたものということがわかります。観音-103「観音菩薩図(千児観音)」の制作が大正10年なので、観音-103はこの「千児観音」の下絵の可能性が高いでしょう。
この西崖が箱書きを寄せた完成品は見つかっておらず、現在「千児観音」は肖哲の下図や下絵のなかでのみでしか知ることがでません。

※1 大村西崖(おおむらせいがい)1816-1927 日本の美術史家、美術評論家。静岡県出身。東京美術学校の一期生で肖哲とは同期。彫刻科を卒業し京都で教員や編集者とし務めた後、東京美術学校に助教授として勤務。その後、教授となって後進の指導にあたった。

◆三つの「観音菩薩図」
肖哲資料に収蔵されている「観音(立像)の周りを多くの子どもたちが取り囲む図」、つまり「観音菩薩図(千児観音)」は、観音-103(大正10年)、観音-105(大正14年)の二作品があります。観音-105(大正14年)は全体的にフォルムがぽってりと厚く、描写が洗練されているのはやはり観音-103(大正10年)の方と言えます。
また、観音-103(大正10年)に関連する資料としては観音-100(制作年不明)があげられます。こちらは、子どもが描かれていませんが、観音の図柄や紙の法量がほぼ同じであり、観音-103(大正10年)の下図である可能性が高いでしょう。

これらの3作品の表情を比べてみると、やはり諸所に若干の違いが見られます。ほっそりとした輪郭に切れ長の眼が伏し目がちに表現されていますが、観音-103(大正10年)はやや眼の位置が下であり、墨線の力強さが表情を引き締めています。同じ観音像ながらこちらが、より作品として評価されるのはこうした違いからでしょう。また、観音-105(大正14年)は首も太く、全体的に肉付きのよい印象を受けます。
観音-103「観音菩薩図(千児観音)」(大正10年)はこのときの肖哲だからこそ描き得た作品であり、画業の研鑽の結晶であると言えるでしょう。

◆大正期になにがあったのか
「観音菩薩図(千児観音)」の観音-103(大正10年)、観音-105(大正14年)はどちらも大正後期に描かれており、その下絵である観音-100(制作年不明)も近しい時期に描かれていると思われます。大正期は他にも、観音-113(大正10年)の制作、芳崖「悲母観音」の模写(大正8年)、「武帝達磨謁見図」(大正8年/浅草寺蔵)の制作など、突出した作品が制作されており、また観音像の下図も多く行われています。この時期、肖哲になにがあったのか、どういうことをしていたのかは大変重要でしょう。しかし、大正9年から昭和3年まで『雑事抄録』の記述が抜けており、本資料から様子をうかがい知ることができません。また、『雑事抄録』が再開される昭和4年からは、なぜか突然、石器の研究にのめり込みはじめます。大正期の活動を知ることは、今後の肖哲研究の鍵になると言えるでしょう。
また、大正12年には関東大震災が起こり、肖哲自身も被災しています。この災害により、制作の基盤を失った肖哲は、その後高野山に移り住みました。こうした環境の変化、社会的要因も、信仰心を持って仏画を制作していた肖哲の精神に、大きな影響を与えたと思われます。

◆「観音菩薩図(千児観音)」の展開
昭和4年になると、肖哲は再び「観音菩薩図(千児観音)」の下図を制作し始めます。それが、観音-101「観音菩薩図」、観音-102「観音菩薩図」です。観音-102「観音菩薩図」には背景に無数の子どもたちが、観音-101「観音菩薩図」は無数の女性たちが描かれており、これらは二福が対になるように仕立てられています。

観音-102は作品のサイズは小さくなるものの、持物や装飾などから観音-103(大正10年)描かれる観音と同じであることがわかります。また、対になる観音-101は、観音が少し腰をかがめた姿で表されているのが特徴で、その図像は阿弥陀三尊来迎図に描かれる観音像などを思い起こさせます。観音-101には子どもから高齢者まで様々な年齢層の女性が描かれており、日本髪の女性から、庇髪の女性、女優髷の女性など風俗や風貌がかき分けられています。

◆子どもモチーフ
観音-103「観音菩薩図(千児観音)」(大正10年)の特徴は何といっても、背景が無数の子どもたちで埋め尽くされていることでしょう。この、無数の子どもたちを画面で埋め尽くすという図像は作例が多いものではなく、観音-103が肖哲の新案ではないかといわれる理由の一つになっています。
肖哲資料の中には、子どもをモチーフとした作品の一群があります。子供-1、子供-2、子供-3は「子ども蓮華唐草デザイン図」といわれ、蓮の花の間に無数の全裸の子どもたちが遊ぶ様子が描かれています。また、子供-5、子供-6、子供-7は飛天を子どもに置き換えたもので、こちらも何かのデザイン画であったと思われます。
これら、子どもモチーフのデザイン画は全て制作年が不明です。「観音菩薩図(千児観音)」との前後関係や影響も定かではありませんが、これらの資料からは、肖哲の「子ども」というモチーフに対する関心を感じることができるでしょう。

◆「大智千兒観世音菩薩」「大理千女観世音菩薩」
この背景に無数の子どもたちや女性を伴う「観音菩薩図(千児観音)」はどのような経緯(いきさつ)でつくられたのでしょうか。『雑事抄録』32巻「大理智観音菩薩ノ事」には
「昭和三年十二月淡路國由良天川村別春荘政岡嘉三郎氏の依頼を以て同家に滞在して理智観音の尺5隻幅を前4年11月落成せしむ今其落款左に示す」
「大智千兒観世音菩薩 智識ヲ與ヘテ兒童を養育ス(尺5寸巾描表装)」
「大理千女観世音菩薩 理解ヲ授ケテ婦女ヲ慈教ス」
「焙香沐浴拜寫 肖哲〔印〕」
とあり、昭和4年制作の観音-101、観音-102はこの「大智千兒観世音菩薩」「大理千女観世音菩薩」に該当すると思われます。このことから、本作は供養や往生のためというよりは「智識ヲ與ヘテ兒童を養育ス」「理解ヲ授ケテ婦女ヲ慈教ス」というように、智や理解を授け子どもや婦女子を護る公徳を願うものであったことがわかります。これらがどのような観音であったのか、当時どんな信仰がもたれていたのか、今後の研究が待たれるところです。
肖哲の千児観音像は、制作年の順から考えると観音-103「観音菩薩図(千児観音)」(大正10年)でいちど結実し、その後「大智千兒観世音菩薩」「大理千女観世音菩薩」へと展開されていった過程が認められます。

(美術工芸研究所 非常勤学芸員 幸田美聡)

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【参考】
「高屋肖哲の新出一括資料調査報告書 『雑事抄録』翻刻・画稿類一覧および研究」金沢美術工芸大学美術工芸研究所 2000年

藤井由紀子「近代化のはざまに生きた画家高屋肖哲―時代から零れ落ちた一人の画家の足跡」「芸術学 学報」第7号 金沢芸術学研究会 2000年

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最終更新日 2018.01.26

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2018.1.26

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